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新約聖書/マルコ福音書
- 2018年9月30日
■信仰の種/マルコ4:30~32
この世で一番小さい種と言われる「からし種」、実に小さいのである。 まるでノミの糞の様。 だが、この種になぞらえてイエスさまは信仰を語られた。 マルコ4:30~32 「からし種は地に蒔かれる種で最も小さい。だが、それが蒔かれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れる程になります。」 信仰とは人の心にあるもので、大きいか小さいかは一見しても判断できない。 だが、それは神の国を信じて期待することの証拠の様なものでもある。 大きい信仰の筈だったが、実際はノミの糞以下だったりすることだってある。 無い、と思っていた信仰が、時として目を見張る程の大きな山にさえ思える。 聖書の神が為さることを人は想像も出来ない。 だから、聖書の神はユニークで、ダイナミックでユーモアのある方なのだ。 ユーモアの分からない人には、イエスを理解出来ないかも知れない。 神学や哲学でイエスを知ることは出来ないだろう。 イエスに関する神学は書けても、ユーモアたっぷりのイエスには出会えない。 信仰の種は「有ること」が肝心であって、大きい、小さいは別
旧約聖書/ダニエル書
- 2018年9月23日
■シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ/ダニエル書3章1~8節
メソポタミヤにバビロ二ヤ帝国が立ち上がった時点で、ユダ王国にとって大いなる北の脅威となった。 バビロンにとって代わる前のアッシリヤ帝国が北王国イスラエルを滅ぼして約135年後だった。 数えきれないユダヤ人が捕虜として連れて行かれた。 若くて頭脳優秀な人々、特殊な才能、技能を持つ人々であった。 彼等は生きることだけを希望の灯と信じ、時として故郷のシオン(エルサレム)を思い出しては泣いた、と聖書にある。 エレミヤという預言者は70年が満ちる頃、主が彼等を再び故郷へ帰還させると預言した。 慣れないことだらけ、言葉、風習、食事、最も肌が合わなかったことは、礼拝する対象が全く異なるものだった。 バビロン於いては王自身が神であり絶対主であった。 目には見えない「御霊」なる神、ヤハウェだけが先祖代々からヘブル人の神であった。 十戒の一番と二番。 「あなたには、わたしの他に他の神々があってはならない。」 「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。」 律法の「イの一番」に登場する言葉は、彼等にとって苦しく重い十字架であったに違いない。 [詩篇137:1~5]
旧約聖書/ダニエル書
- 2018年9月16日
■獅子の口から私を守る方/ダニエル書6:10~28
「王よ、今から30日間、この国においてあなた以外にいかなる神にも人にも祈願する者は誰でも獅子の穴に投げ込まれるという禁令に署名されましたね?」 王は答えた、「その通りだ。取り消しの出来ない法律であることは確かだ。」 そこで彼らは言った。 「王よ、ユダヤから来た捕虜のダニエルは、あなたの署名した禁令を無視して、日に三度祈願をしております。」ダニエル書6章13節 それを聞いた王が瞬間、顔色を失ったと思える場面。 捕囚のひとりではあるが、ペルシャにおける政治的要職にあり、王の片腕として偉才を見せたダニエルは窮地に落とされた。 しかもダリヨス王、自らが署名捺印した「礼拝禁止令」によってである。 「このことを聞いたダリヨス王は非常に憂え、ダニエルを救おうと決心し、日暮れまで彼を助けようと努めた。」(ダニエル書6章14節) 結局、自分がした事ではあるが、彼の人生においては、あまりにも軽率で先を考えない失策だった。 思い直せば部下たちの卑怯な魂胆を見抜けなかった自分がいた。 禁止令の条文の軽さの反面、厳しい結果を伴うことは、浅はかな自分の対応だったのだ。 それ
旧約聖書/ダニエル書
- 2018年9月9日
■いつものように。。。/ダニエル書6:1~14
クリスチャンとして信仰に入ってしばらくの後、必ず導かれるのは聖書への取り組み。 黙想、祈り、瞑想、聖書を聴く。 これが私達の食事となる。 肉として生きるのではなく、霊性を養われることが第一であるからだ。 問われるのはC・信仰をどの位置におくべきか。 棚の上? 机の引き出し? 買い物籠とかブリーフ・ケースの中? 頭の端っこ? すべてブーである。 当初は知恵を貰うためと思った。 幾年も過ぎてから聖書は絶えず考え、口ずさみ、呼吸するが如く必要不可欠だと分かった。 人は意識せず呼吸し、自然に食事して生きる。 同様に聖書、神のことばを忘れて霊性を保つことなど一日として無い。 これは事実である。 神の言葉は力であり、信頼であり、教書であり、過ちを悟らせ、悔い改めを促す。 自分の霊性が健康な時は、とても味わい深く、美味しいものだ。 一旦、神に反抗しているときは、やたらと鬱陶しい存在にもなる。 聖句は苦く、苦く吐き出したい程だ。 人間とは各も簡単に寝返ってしまう者であり、そしてキリストに愛された者なのである。 何年も何年も人は聖書と格闘する。 それは或る意味、自
新約聖書/ヨハネ福音書
- 2018年9月2日
■集中/ヨハネ8:19~34
今日まで生きて来て、今回ほど不思議な体験はなかった。 確かに与えられた聖書箇所からのメッセイジを想い、タイトルを思いを巡らしていた。 教会に分かち合いたいことは沢山あった。 そして、いきなり「メッセイジ・タイトル」が降りてきた。 『集中』の二文字、これは主からのものだった。 取り組んでいた聖書箇所には、何となくそぐわないと感じたが『集中』と決めた。 そして先週の或る日、いきなり「五 七 五」の句が降って来て驚いた。 一句「ひねろう」とも思わなかったのに・・・何故だ? 「語られて 知るは己の 不信仰」自分にぴったりの5 7 5だった。 聖書とは読み取る時があり、聴くべき時があり、探し求める時がある。 すべて、どういう時でも共通して大切なことがある。 それは語られる方を期待して待つ、静まって待つ、心を低くして待つということだ。 決して、自分が先に立たない様に。 自分が走り出さないように。 『みことば、打ち開くれば 光を放ち 愚かなる者、悟からしむ。』(詩篇119:130) 主がみことばを開いて下さるのであって、私が勝手に読み取るのではなない。 「あな