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新約聖書第一コリント
- 2019年9月29日
■キリスト者の住処/Ⅰコリント11:1~9
キリスト者の居所、それは単に私の住所ではない。 この世に於ける住処というより、イエスと生きる次元であり彼と生きる時間である。 このような言い回しをする様になったのは、数年前に学んだ一年半の聖書問答からだった。 ヨハネ福音書を徹底して一節ずつ、それこそ舐めるようにして取り組んだ。 ヨハネが何を言いたかったのか、そこだけに首を突っ込んでみた。 使徒ヨハネはイエスこそ神である、と一生懸命に訴えていた。 日本の教会は「イエスは御子であると教えてきた。 御子には違いないが、イエスは神である、と私は納得した。 以前は「神さま」「神さま」と言っていた私であるが、今は「イエス」「イエスさま」と呼ぶようになった。 「わたしを見たものは父を見た。」といわれ、「わたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。」とも言われた。 ヨハネ14章のいうとおり、クリスチャンはイエスを知るのが最も大切だと思う。 クリスチャンとは「キリストの者」であり、「キリストのもの」である。 私が居るところはキリストのおられるところ、キリストのおられる所こそ、私が居るべきところと考える。 旧
新約聖書/コリント第一
- 2019年9月1日
■他の人の良心のために/1コリント10:23~33
「私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、他の人の良心です。」 パウロという人は非常に真っすぐで強い男性と思っていたが、クリスチャンになって全く変えられた人となった。 自分のすべきことは、何が起ころうと、やり通す的な人の様に思っていたら実に繊細で柔軟な生き方を見せる。 なぜそれほどに強い側面を維持しつつ、まったく逆のナイーブな面を見せられるのだろう。 それは彼がイエス・キリストを最も間近に覚え続けたからである。 パウロはひたすら伝道を推し進めただけではない。 まだ救われていない人、救われたばかりの人、こういったクリスチャン若しくはノンクリスチャンの魂さえ、彼にしてみれば愛して止まない魂なのである。 その人たちの為にもキリストは十字架に掛かられた、これがパウロの心だった。 『他の人の良心のために』パウロは最大限以上の思いやりを配置できる人だった。 イエスという方を、罪深い人類の救いの為に惜しげもなく与えられた主とは、どれ程慈愛に富み給うた方であるかを知ったのは、パウロ自身が自分という存在を知り尽くしたからこそであった。 引き換えて、私たちはどれほ