■キリスト者の住処/Ⅰコリント11:1~9

キリスト者の居所、それは単に私の住所ではない。 この世に於ける住処というより、イエスと生きる次元であり彼と生きる時間である。 このような言い回しをする様になったのは、数年前に学んだ一年半の聖書問答からだった。 ヨハネ福音書を徹底して一節ずつ、それこそ舐めるようにして取り組んだ。 ヨハネが何を言いたかったのか、そこだけに首を突っ込んでみた。 使徒ヨハネはイエスこそ神である、と一生懸命に訴えていた。 日本の教会は「イエスは御子であると教えてきた。 御子には違いないが、イエスは神である、と私は納得した。 以前は「神さま」「神さま」と言っていた私であるが、今は「イエス」「イエスさま」と呼ぶようになった。 「わたしを見たものは父を見た。」といわれ、「わたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。」とも言われた。 ヨハネ14章のいうとおり、クリスチャンはイエスを知るのが最も大切だと思う。 クリスチャンとは「キリストの者」であり、「キリストのもの」である。 私が居るところはキリストのおられるところ、キリストのおられる所こそ、私が居るべきところと考える。 旧約聖書に登場する神は「ヤハウェ」と呼ばれた方。 ヤハウェとは「わたしは有って有るもの」と、主はモーセに自己紹介された。 やがて「ヤハウェ」と呼ぶことを恐れたㇸブル人達は長い間「アドナイ」=「主」と呼んで生きてきた。 あまりに畏れ多くてヤハウェとは呼べなかったのである。 イエスという名は、何と身近な名前だろう。 神の方から近寄って来られたのだ。 人間のために、罪びとのために、イエスは近寄ってくださった。 それは私たちが救われる為である。

■他の人の良心のために/1コリント10:23~33

「私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、他の人の良心です。」 パウロという人は非常に真っすぐで強い男性と思っていたが、クリスチャンになって全く変えられた人となった。 自分のすべきことは、何が起ころうと、やり通す的な人の様に思っていたら実に繊細で柔軟な生き方を見せる。 なぜそれほどに強い側面を維持しつつ、まったく逆のナイーブな面を見せられるのだろう。 それは彼がイエス・キリストを最も間近に覚え続けたからである。 パウロはひたすら伝道を推し進めただけではない。 まだ救われていない人、救われたばかりの人、こういったクリスチャン若しくはノンクリスチャンの魂さえ、彼にしてみれば愛して止まない魂なのである。 その人たちの為にもキリストは十字架に掛かられた、これがパウロの心だった。 『他の人の良心のために』パウロは最大限以上の思いやりを配置できる人だった。 イエスという方を、罪深い人類の救いの為に惜しげもなく与えられた主とは、どれ程慈愛に富み給うた方であるかを知ったのは、パウロ自身が自分という存在を知り尽くしたからこそであった。 引き換えて、私たちはどれほどに自分を知っているだろう。 昔、読んだ言葉を思い出す。 主の愛の深さを知った求道者が神に問うた言葉、「主よ、私が自分を客観的に眺めるとき、どうしても罪しか見えないのです。私という存在そのものが罪なのですか・・・」 果たして、人は其処までも己を見抜くことが出来るのだろうか。 出来る、と思う。 もし人が主の御霊の力によって自分の内側を直視したとすれば、である。 実際、私たちは自分の良心さえ裏切ることを、いとも簡単にしてしまう生き物だと思う

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