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■「神よ、なぜですか」 / 詩篇89:46~52

人はその人生で、誰もが悩み、苦しみがあります。神の民(クリスチャン)であるならば、苦しみが与えられた意味を知りたい、と思うのです。新約聖書の「へブル人への手紙」では、神はその愛する子(信仰者)に対し、ムチをもって懲らしめるが、それは憎しみの故ではなく、「子として扱っておられるからである」とも語ります。試練が与える人間への痛みは、試練の意味と共にそれが終わるのがいつなのかが、見えないからでしょう。

 

89編:46からの言葉から作者が感じる苦しみは、「試練の終わりがいつなのか」ということと、その試練が「神の怒りによってである」と感じるからです。彼はそこで「神は私を怒っておられる」ことと、「神が見えない、感じられない」という焦燥感につつまれて、己が命と人間のはかなさを、さめざめと嘆いております。何故、それほどの苦しみを覚えるのでしょうか。それは、彼自身が以前体験した「神の祝福と慈しみ」があったればこそ、ではないか、と思います。あの時、感謝と喜び、神の言葉と臨在、どんな困難も乗り越えられたのです。素晴らしい人生、それは神の約束を信じて生きる日々です。しかし、彼は今、程遠い世界に置かれた我が身を恨んでいるのです。


 皆さんの今はいかがですか?
 神の臨在、聖霊の満たしと働き、困難はあっても主にあって感謝と喜びがありますか?「遠い昔はあったんだけれど・・・」と言っている方はありませんか?
 試練ばかりで神の恵みが見えません・・・
 この世のこと、健康、お金、仕事のことが先行課題でとても気が回りません・・・
 


 しかし、私たちが先行とするそれらの重要課題は、私の命の終わる時、どれほどの価値があるのでしょう。人生ははかない。短い。野に咲く花のよう。草のよう。それが人間の一生です。永遠の神に心を向けられないでしょうか。時間の中の宝を、私たちは何一つ持って死んでゆくことは出来ないのです。一人が死んでも、時間はおかまいなしに過ぎてゆくのです。
 

 今日の聖書の最後。52節に一際輝くみことばがあります。
 「ほむべきかな、主。とこしえまでも。アーメン。アーメン」
この短い言葉が、彼と彼の人生を物語ります。彼はただ、愚痴を並べていたのではないのです。苦しい祈りと叫びが出てしまう人生にあっても、彼は永遠なる方をたたえ、神を信じているのです。
 素晴らしい、と思いました。神の子供たちはこれほど自由なのです。祈る言葉が問題ではありません。生き方が先決ではありません。神の前に自分を置いて行く、ことが先決なのです。
 

 

 

 

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