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■「奴隷から相続人へ」 / テトスへの手紙3:1~11

肉の奴隷 日本人社会に起こっている凄惨な事件を知って、特に感じることがあります。それは、「自由というものをはきちがえた私たち」ということです。通常、私たちは考えます。何でも出来る事が自由である、と。でも、その自由によって、誰かが泣いたり、傷ついたり、死んだりしています。とすると、それは自由と呼べないではないでしょうか。自由ではなく、奴隷状態ではないでしょうか。したくなくても、しなければいられない、がため、結果的に誰かを傷つける。となれば、それは既に自由ではなく、囚われ状態です。今の社会は暴力、殺人、性犯罪といったものの要素が野放し状態に溢れています。音楽、画像、情報、それらは純粋な若者や子供を毒しています。いいえ、良識ある筈の大人でさえ毒されています。勿論、国家権力が情報のすべてを押さえつけるべきではありませんが、どこかでくい止めねばならないのです。何をもってそれが出来るのでしょう?

相続人

私たちクリスチャンもイエス・キリストを受け入れる以前は奴隷状態でした。昔、歴史の中に置かれた奴隷たちは、自分が奴隷であることを「知って」いました。ここが重要なポイントです。しかし、現代の私たちは自分が奴隷とは誰も思いません。つまり「知らない」のです。キリストと聖書に出会って、初めて自分が「肉の奴隷」である、と気がつきました。肉体と言う意味ではありません。「肉的な生き方」と言うものです。聖書はこの「肉的な生き方」の特色を語ります。それは「不品行、肉欲に身をまかせる、占いや偶像礼拝、憎しみ、争い、嫉妬、怒り、利己心、人のあら捜し」などですが、そこから起こることは「殺人、ねたみ、泥酔」などです(ガラテヤ書5:19~)。勿論、クリスチャンであっても、これらから完全に解放されたわけではありません。 イエスは私たちを奴隷状態から解放してくださいました。解放してくださっただけでなく、「神の約束を相続する者」とまで、してくださったのです。キリストの十字架にはその力があるのです。彼はそのために、この世に生まれてくださったのです。人間が誰かの代わりに死ぬことは出来ます。でも、他の人の魂を救ったり、罪から解放したりは出来ません。 イエスが十字架刑に処せられた時、バラバという極悪人が釈放されました。「パッション」と言う映画にもその場面がありました。イエスが罪びとの代わりに死んだのです。そして、死ぬべきバラバは自由を得ました。これが救いの意味を象徴しています。 あなたは今日、自由ですか?もし、自由だとお思いでしたら、何を基準に自由と思われますか? パウロは言っております。「私は何でも出来るが、徳とならないもの、益とならないものはしないでいられる」(第一コリント6:12)。そうです、支配されないことが、本当の自由です。そして、人間は自分中心と言う「主人」に支配されているのです。自由はイエス・キリストだけが鍵を握っておられますから、彼からもらう他に術はないのです。アーメン

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