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■ 「天的信仰」 / マタイ16:1~19

地上的信仰? 2004年のオリンピックはたくさんの感動をもたらしてくれました。メダル数だけではなく、人間、家族、友人、スタッフという関係の素晴らしさを、教えてくれたのです。日頃のストレスも随分癒された思いがします。そして、終わってみれば幻のような時間であったような思いさえします。陽は昇り、陽は沈み、見えるものは時間の彼方に過ぎ去って行きます。しかし永遠であるなら、それは同時に現在であり未来でもあるのですから、喜びも感動も絶えず継続し続けるのです。  私たちの毎日に起こる様々な出来事。それに対処して行くとき、信仰によって判断し、決断することの難しさを覚えます。なぜなら、大体が地上を見据えた信仰であって、決して天につながる生き方をしていない、からです。自分の意志と感情で判断して行くのであって、自分にとって不利であったり、気が向かねば決してそちらには進みませんから。しかし、決断するその方向が天に向かう、つまり神につながって行くなら、別な意味での平安があるのではないでしょうか。

地と天はつながっている? イエスさまは言っておられます。「あなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれている」(マタイ16:19)。 それは肉眼に見えるところだけで生きるのではなく、天をも視野にいれて生きる、ということです。イコールそれは地上的価値観でしかものを見ないのなら、天においてもそれだけのもの、ということです。天を見据えて生きることは、とてもスケールの大きな生き方だと思いました。目前がどのようであれ、創造主なる神を信じる者には、神の国、永遠の世界がその上にあるからです。目の前の絶望は地上だけであるのですから、ただ嘆きつづける必要はないのです。想像してみてください。あなたが今、神の無限を信じて生きるなら、天においてあなたの信仰の無限性が反映されているということを。なんと素晴らしい世界がクリスチャンに与えられているのでしょう。神をたたえます。

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