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■ 「聖霊のバプテスマ」 / マルコの福音書1:1~11

荒野で叫ぶ者、ヨハネ
 イエスの母マリヤの親戚にあたるエリサベツから生まれたのが、ヨハネという人でした。
 彼は成人した時、ヨルダン川から神の選民イスラエルに向かって叫んだ言葉が、「罪を悔い改め、神に帰れ」というものでした。それは生き方を神の方向へ変えなさい、なのです。つまり、自分を中心とした生き方でなく、神を中心として生きなさい、でした。日本語に訳された「罪」という表現は元来適切ではありません。この国、日本人には敏感に響く言葉ではないのです。なぜなら、自分が罪びととはいささかも考え得ないからです。聖書が言わんとしている意味は「創造主から離れた生き方」とか「利己的で自己中心な生き方」です。こういう表現だと、人間少なからず皆「自己虫」なのです。当然です。誰だって他人を中心に生きている人などいない?でしょう。みんな、自分を中心に生きているのです。でも!それは「創造主の前においては罪人」なのです。あなたはいかがですか?そういう考え方自体が宗教的と決め付けて、一笑に臥しますか?そうです、だから罪びとなのです。
 宗教は考え方だけでなく、それ以前の部分、すなわち存在としての自分そのものを問うのです。他人云々ではなく、自分だけを見つめるなら、やはり自分は自己中心な人間という姿が浮かび上がってくるのだと思います。
 

 

バプテスマ
 ヨハネが呼びかけたことは、「神に帰り、己が罪を悔い改めよ」ですから、そのバプテスマ(水に全身を浸す、漬ける)は悔い改めるべき罪びとでした。聖書は、大勢のユダヤ人が国中からエルサレム中からやって来たと書いてあります。世界で最も美しい感動的な情景でした。彼らは、絶対なる神の前に、自分の罪を認めて水に身を浸し、体からも心からも罪を洗い流したのでしょう。しかし、一人の男を見たとき、ヨハネは叫びました。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるべき者です」と。その相手はナザレの村からやって来たイエスでした。罪なきイエスが悔い改めのバプテスマを敢えてしよう、とされ、そして彼は水に身を浸したのです。イエスは聖霊に導かれてバプテスマを受けられたのです。
 現代、教会で行うバプテスマは悔い改めによるものだけではありません。その中心は「キリストを信じ受け入れ、キリストの側に生きて行く決心を表明し、古い自分に死に新しい自分に生きる決意と信仰を表す」ものです。それらは人間一人の努力では為し得ません。必ず神の助けと導きが必要です。その助けを下さる方こそ、聖霊なのです。誰でも聖霊によらずば「イエスは私の主である」と言えません。この世にあって、私たちが言い得るのは「私が私の主」つまり、私の人生、私のもの、私が、私が・・・なのです。そこに神はいないのです。存在するのは私だけであって、キリストもいません。そういう自分であったことを理解したのは、イエスを信じ受け入れた時からでした。私たちが神に帰らねば、人生の本当の意味さえ見失ってしまっているのです。人はやはり、自己中心なのです。
 

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