■ 「神の国がやってきた」 / マルコ1:9~20

イエスがバプテスマ?? イエスがバプテスマを受けられたとき、神の御霊が鳩のように下り、天から声がした、と聖書は語ります。「あなたはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」現代、私達の教会もバプテスマをしますが、一つの魂が神に帰り、罪を悟り、人生を神に明渡して行く時のバプテスマは、いつ見ても心に感動の波が押し寄せます。2千年前のその時、ヨルダン川はかつてなかった喜びと祝福が満ち溢れたのです。イエスに罪を見つけることはできません。なぜなら彼には罪がない、からです。その方が神に立ち返るバプテスマを受けたのです。ならば、罪びとである私達はなお更のことです。そして、やはり天の神はそのことを喜んでくださるのです。

誘惑 そして聖書は間髪を入れず、語ります。「そしてすぐ!」神はイエスをサタンの待つ荒野に「追いやられた」と。霊的な喜びの中に浸る時も与えず、神がイエスを追いやったのです。なぜそのような表現を、敢えて記したのでしょう。仮に私たちなら、誘惑に飛びつくのでしょうか?それとも、楽しみながらもてあそぶのでしょうか?身と心を委ねるでしょうか? そして、その行動、思いは罪となります。誘惑を受ける事自体は罪ではありません。天の父はイエスに対し、この世に生きる人間の宿命を、体験として与えました。すべての人間は誘惑を受けますが、イエスさまは人間と同じ環境に生きて下さったのです。だから彼は私達の痛みや迷いを思いやることができるのです。そして、クリスチャンであるからこそ、誘惑を激しく受けることも事実です。サタンは耳に聞こえぬ声をもって私たちに囁きます。不安を駆り立てます。信じる心を揺さぶります。神の約束に条件をつけます。天国に入るための条件さえも付け足します。他の人を赦さないように、私たちの心を頑なにコントロールさえします。私達に対して赦されていないとさえ、思わせます。しかし、覚えましょう。恵みとは、そういう誘惑を断ち切り、神を信じてゆくところで初めて出会うものなのです。ですから、神が自分のような弱く小さな者さえも、愛しておられることを信じ続けるのです。神の愛からあなたを引き離すことは出来ないと、ローマ書は約束しています。今日、自分の弱さ、心の醜さに泣いている人がいるとすれば、その人こそ神の国に最も近いと言えます。このような人こそ、心貧しき者なのです。 「心貧しき者は幸いなり。天の御国はその人のものなり」マタイ5:3

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