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■ イエスを求め、そして拒む世 / マルコの福音書3:1~11

クリスマスの時期、デパートは早々とツリーを飾り、クリスマス・ソングが町中を流れ、家によって明かりのデコレーションにつつまれています。私の近所の酒屋さんの庭は、お伽の国に迷い込んだように思うほどです。
でも、これらの場所に救い主のお生まれになるのを、待ち望む希望は見えません。人々は寒くて冷たい暗闇の中に、小さくても暖かい光を放つ空間から、ロマンを感じ取って行くのでしょう。
 

 主イエスを取り囲んだ会堂内は、冷たい眼差しで満ちていました。彼らはイエスを訴える隙間を狙っていました。イエスの前に、片手の萎えた人がいましたが、イエスが彼を癒すことは、当時のユダヤ教にあって、律法に違反する者として訴えられました。イエスは人々の心中を知りつつ、彼らに向かって言われました。「安息日に人を助けることは良いことなのか。それとも悪なのか」。人々は黙っています。イエスは手の萎えた人に言われました。「あなたの手を伸ばしなさい」。すると、彼の手は元どうりになりました。人々は、どうやってイエスを抹殺しようかと、相談を始めました。
 

また、ガリラヤ湖の近くにいたイエスを迎えたのは、各地からはるばるやってきた数え切れない人々でした。彼らは「ひと目、ナザレのイエスを」と言う人や「なんとかこの病気を治して欲しい」と願う人たちでした。あまりの群集にイエスは身の危険を感じる程でしたが、イエスに触った人たちは、皆癒されたと聖書は言います。
 

 

そういう中で、幾人かの人たちが、イエスの前にひれ伏して言いました。
 「あなたこそ、神の子です!」この人たちのことを福音書は、こう言っております。「汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、叫んだ」と。
 

 汚れた霊、とは何でしょうか?性的堕落、社会道徳から外れた人たちもあるでしょう。しかし、イエスの前にひれ伏し、「あなたこそ、神の子です」と叫んだのは、こういう人たちだけでした。彼らはおそらく自分が汚れた心の持ち主、恥ずかしい人間、人並みではない者、と言う認識があったのだと思います。そして、自分は神さまの前にどうしようもない者、と意識していました。その意識がイエスを前に彼らをして「あなたこそ、神の子である!」とイエスを呼ばわしめたのです。果たして、私たちは今、どこに自分を置いているのでしょう。十字架の前においては、すべての人は恥ずかしい者、どう仕様もない者です。そういうところに自分を置ける者だけが、イエスに向かって「あなたこそ、神の子です!」と叫ぶのです。クリスチャン生活とは、果たしてそういうところに自分を置けるか否かが日々、問われていることでもあるのです。
 

 

 

 

 

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