■ 聖霊に曳かれて / マルコの福音書3:20~30 (2005-01-23)
「牛に曳かれて善光寺参り・・」こんな言葉を聞いたことがありますか? 牛に・・ではなくて、聖霊に曳かれて(引っ張られる、引きずられるという意味)、主に仕える場面がクリスチャンには少なくない、と思います。自分としては、こういうふうにとか、後になってからとか考えたいのですが、聖霊は違う方法、そして今、というふうに働かれることがあるのです。聖霊は私達の内側の深いところで、呻くように私たちに訴えられるのです。しかし、考えてください。私の中に神の霊が宿っておられると、いうことを。素晴らしいことです。それだけでも、ハレルヤ!と神をたたえるべきです。
今月、韓国から24名のお客様が当教会に宿泊されました。そして、とても素晴らしい交流の時を持てました。恵みの主に感謝します。 近くて遠い国、と随分長く言われて来ましたし、今もそうである、と感じます。日本の植民地支配は戦後60年を経ても、消えるどころか益々鮮明になって来るような思いがします。韓国が近くなればなるほど、我が国がしたことと、依然として赦されていない実情が見えてくるのです。昨年、テレビで放映されたラブ・ストーリーは多くの婦人達の心をとらえ、異常なブームをもたらし、良い?印象を他の分野まで与えました。この部分だけで言えば、韓国が近くなったことは事実です。しかし、本当に和解が出来たのではありません。彼らにとって、日本を知れば知るほど、和解出来ない意識が頭をもたげることを、私達日本人は覚えるべきでしょう。
加藤常昭先生の本に、ナチス・ドイツが150万とも言われるユダヤ人虐殺の場所で学ぶ、ドイツ人高校生や若者の姿に深い感銘を受けた、と書かれていました。ドイツにはそういう場所が残されており、「自分達の国が何をしたか」を彼らはつぶさに目にしています。そして、以前ブラント首相がポーランドを尋ねた際、ユダヤ人迫害記念碑の前に、思わず膝を折ったことがあったそうです。1992年、ブラント首相の葬儀の際、ドイツの大統領は「ブラント首相によって、ドイツと他の国々に和解が生まれ、東西融和が始まった」と述べたそうです。 日本の多くの地で、朝鮮、韓国の人たちが過酷な労働と、虐殺を受けましたが、それを歴史の事実として、日本の若者が学ぶ場所がこの国にあるのでしょうか? また、アジアの同胞に対し、膝を折った宰相がいたでしょうか?
神の前において、本当に和解に至るための努力を委託されているのは、この国のクリスチャンだけだと思います。神の聖霊に曳かれなければ、膝を折る人などこの国にはいないのです。聖霊が私達にさせることは何でしょう?祈りですか?それもあります。賛美ですか?それもあります。しかし、聖霊が私達に為さしめることは、自分の罪、この国の罪を示し明らかにすることです。これこそ、聖霊の一番の働きから来るものです。そして、聖霊の敵は誰でしょう?サタンですか、勿論です。悪例ですか?勿論です。しかし、最大の敵は、人間の自我なのです。神に 従う道に自我がいつも立ちはだかっているのです。聖霊に曳きずられて主に仕えましょう。自我に勝利する唯一の領域です。