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■ 神よ、あなたからの杯は飲めません / マルコの福音書14:27~36 (2005-03-13)

最後の晩餐を終え、イエスと弟子達はオリーブ山へ向かった。その途上、イエスは弟子達に言った。「あなたがたは皆、躓く。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊はちりじりになる。』と書いてあるから。」ペテロは即座にイエスに言った。「私だけは決して躓きません。」
 

しかし、信仰に躓かなくても、イエスに躓かない人はいないと、言えるほどである。それは、私達が勝手にイエスと言う方はこうだ、とイメージしてしまうからである。そして、生活の中でイエスの言葉を聞き、従うべき場所に来るが、実際従えない場面が圧倒的に多いのである。他者を赦せない、受け入れられない。または、自分の弱さに出会ってしまって挫けてしまう時などである。つまり、神を信じてもイエスに躓くのである。信じることは簡単だが、いかに生活で実践することが難しいかを身をもって味わう。だが、これを乗り越えずして、信仰には明日がない、ことを覚えるべきである。
 

 弟子達のメシア像(救い主)は、イエスが地上の王として君臨し、癒しと助けを民に施し、奇跡によって多くの民を救う姿であったろうか。しかし、イエスはそういうところは、初めから目指していなかった。彼は全人類を罪と死、永遠の滅びから救うために来られたのである。
 

イエスがゲッセマネの園で祈られる。「父よ、あなたは何でもお出来になります。ならば、この杯を私から遠ざけてください。しかし、わたしの願いではなく、あなたの御心を行ってください。」
 

クリスチャンは常日頃から、この祈りをすべきであろう。いかなる時でも、いかなる場面でも。実際、私は自分の思いを優先している。神さまに祈ったにしろ、である。本気で祈り、本気で聞くなら、神さまの答は多くの場合、私たちの思いの反対であるような気がする。つまり、私にとっては不都合と言うか、不利な場合が多いように思う。勿論、少なからずそうではないクリスチャンがいることも信じる。
 

 私など、自分で道を決めてしまってから、「神さま、そういうわけですから、どうか私を応援してください。」と言う祈りの内容である。これではまるで神さまが私の僕である。それは要するに、私はあなたからの杯は飲めません、である。もう、決まってしまっている、のである。36節のイエスの祈りは、すべてのキリスト者の祈るべき祈りである。いかに自分の不利となろうが、どちらに転んでもいいから、何よりも神の答を優先します、いう姿勢が必要だ。イエスは「わたしのたましいは、死ぬほど悲しい」と言うところで祈っている。十字架と言う杯は飲みたくない、しかし、天の父の御心ならば喜んでいただきます、と言うのだ。この祈りに比べ、私の祈りは何と自分の利益を優先しているものだろう。また、神の答よりも己が満足を求めているのだろう、と思わずにいられない。受難週を前にして、十字架の足元にへりくだりたい。
 

 

 

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