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■ 十字架・あなたのために、私のために / ヨハネの福音書19:14~35 (2005-03-20)

イエス・キリストは「私達のために十字架で死んでくださった」のではない。
 彼は、「あなたのため」に「私のため」に死なれたのである。これは、言葉遊びではなく、事実なのである。1個人のために彼は死んでくださったのである。ここを離れてしまうから、信仰が揺さぶられたりすると、もろくも倒れてしまうのだ。教会において祈るときも、幾人かで祈るとき使う言葉は「私達」である。そういう場では仕方ないが、信仰の立ち所としては「私」と言う存在のみ、である。それは同時に、私はあなたのために祈ることは出来るが、あなたの代わりに祈ることは出来ない。あなたのために行動出来ても、あなたの代わりには出来ない、ことと同じである。

 


 今週はイエスの通られた受難の週である。クリスチャンにとって一年で最も重い週である。私のために主が打たれ、唾をかけられ、鞭打たれ、笑われ、そしてあの苦しい刑に処せられたのだから。罪ひとつだになき方が、どうしてあのような死に方をされねばならなかったのか。十字架の上で誰をも呪わず、叫ばれた言葉は「父よ、彼らを赦したまえ」でしかなかったのか。神はどうして彼だけに罪の責任を負わせたもうたのか・・・それは神は愛なり、のゆえでしかない。神はまことにあなたを愛したもうた、のである。そして、私を。
 

 今週のアパールームにユニークな視点で書かれた証しがあった。その人は植物公園で働いておられる。「アダムとエバが神の約束を破ったあと、自分の体の一部分を「イチジクの葉」で覆った。イチジクの葉は、小さいのに、である。もっと大きな葉もあるのに、どうしてあのような小さい葉で「恥ずかしい部分」を隠したのか。だが、私達は同じように自分の恥ずかしい部分(心、生き方、考え、行動)をイチジクの葉で隠しているのである。神さまの前には隠し通せないのに。」とあった。そのとうりである。大胆に信仰の道を生きられないのは、隠さねばならない場所を持ち続けているからではないだろうか。どうせ隠し通せないのだから、開き直ってすべて神の前に広げたらいいのに、である。聖書は言う。「愛する者達、もし自分の心に責められなければ、大胆に神の前に出ることが出来る。」(第一ヨハネ3:21)と。
 隠すことによって、神が見えない。隠すことによって神のことばが響いてこない。しかし、それは隠しているものが問題ではなく、隠そうとする人間に問題があるのだ。つまり、人間のそういう心が、神の恵みも祝福もさえぎってしまうのである。そして結果的に隠されたもの自体が、人間の良心と信仰を責めるのである。
 

 人間には絶えず原罪がつきまとう。それは別名を宿罪とも言う。つまり、罪は私に宿っているのである。この客は非常に厄介な存在である。幾ら金を積もうが決して出て行かないのである。パウロの告白、ローマ人への手紙7章をリビング・バイブルで読むと、切々とあなたの心に訴える。きっと、アーメン!と言うであろう。しかし、「このパウロの信仰告白こそが私の告白である」と言えねば、十字架で私は死んでいないである。。イエスだけを十字架に押し上げ、「私達の身代わりになられた主」と言うも者でしかない。パウロのように、「私はキリストと共に十字架で死んだ」と言うところに「私が生きているのは、神の御子を信じる信仰のみ」とつながる。
 

もう一度、「私」を十字架の上に置いて、主に祈ってみよう。イースターの爆発するような喜びは「あなたのもの」となる?アーメン!なるのである。
 

 

 

 

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