■ 主はここにおられる / マルコの福音書7:9~23 (2005-07-03)
昔、旧約の預言者エゼキエルはバビロン帝国がユダヤを踏襲し、人々を捕虜として帝国へ連れ去った時代に起こされた人である。神はエゼキエルに不思議な幻、黙示を見させられた。それは、今は荒涼として朽ち果てたように見えるエルサレム神の都と神殿も、やがて「その時」が来れば以前にも増して、華麗で荘厳な神殿と、人々の歓喜の声が響き渡るダビデの町が再建されると言うものであった。エゼキエル書最後の章、最後の節にこうある。「その日から、この町の名は、『主はここにおられる』と呼ばれる。」ヘブライ語では『アドナイ・シャマ!』と言う。
預言者エゼキエルは遠くバビロンの地で、この神からの啓示を見させられ、どんな思いであったろう。仮に今がいかであれ、神の時至れば、信じられないことが実現するのである。今は砂粒を噛むような試みの日々であろうと、「その時」が来れば、王宮の宴のような日が待っていると言うのだ。実にキリスト者の立つ場所は、それを信じられることなのである。なぜなら「その日から・・」ではなく、今この瞬間に「我が内に救い主イエスがおられる」からである。アーメン、主をたたえよう。
イエスは群集に向かって言われた。「外から入って人を汚すことの出来る物はない。人から出るものが人を汚す。」「人に入る物は人に入らないで、腹に入り、そして厠(かわや)に出されてしまう。」
人から出る考え、言葉、行動は他者を汚し、傷つけ、殺し、そして自分をも破滅させる。昨今のニュースでは、特にこのことを感じる。一歩譲ったら、お互い気持ちよく暮らせる社会なのに、その一歩が譲れない。一歩でも人より先んじたいのである。昔であろうと善人ばかりが住んでいたわけではない。ただ、今の時代は人の弱さを思いやる部分、譲る心が大きく欠落してしまったように感じる。感情を制する理性が欠けたのか、もともと感情だけの人間が増えたのか。どこへ住んでも狭い日本、狭い日本人社会である。表面、外見も大事だがもう少し腹の中を清めたい。だから問題は口に入るような食べ物ではなく、人の腹、つまり考える場所、思考する場所、対処する場所、行動に対し命令を発信する場所なのである。私達の内側は想像もつかないくらい恐ろしい可能性が詰まっているのだ。せめて聖書を読んでくれる国民であったら、もう少し自分に向かっていたら折角の人生を棒に振らなくても済んだのにと、私自身も厄介な内側を抱えつつ瞑想に明け暮れし、悩む牧師の日々を送っている。
人間の表面と腹の中は、天と地ほどの開きがある。私達の腹の中は自分の考えではさほどひどいものとは思わないが、神の聖なる光に照らされれば実際汚泥が詰まった下水の様なものである。 人間とは恐ろしい生き物である。神が精魂込めて造られたのに、罪の沼から生まれたような者になってしまっている。生まれついて神から離れている人間、まさに自己虫なのである。魂に染み付いてしまっている自分中心の生き方。どんな塩水で揉んで洗っても落ちようがない罪の汚れ。ただキリストの血で洗ってもらうしかない。この方だけが、素晴らしい漂白をしてくださる。罪は赤いと聖書は言う。真っ赤なのだ。決して黒ではない。だから「真っ赤な嘘」とも言う。まさに罪は緋色である。それが、イエスの十字架にかかると、雪のように白くなるのである。
主はここにおられる。そう、イエスは私達の内側に入ってくださった。内側から出るものが人を殺すことさえ、し兼ねない罪の巣窟のような場所に住んでくださった。これ以下がない最低な場所に、神の御子であるところの最高の方が宿ってくださった。 爪の先っぽほどの罪さえ知らない方が住んでくださっている。なぜなら、キリストが内にに住んでくださらない限り、人間は神が求められる善に生きることが出来ないからである。そうでない限り、人は自分を愛すことも、他人を愛すことも神をたたえることも出来ない。通常考える愛はエロスであり、人間関係の故に存在する理由故の愛である。つまり、家族関係、職場関係、師弟関係、みなここである。神の愛は、「理由がない愛」、つまり「だから」ではなく、「・・のに」の愛だ。私が人や神を裏切ったのに、人を傷つけ殺したのに、これほど誰かを悲しませたのに、それでも愛してくれるのがキリストの愛である。これをアガペーと言う。イエスが「天から引っ張り下ろした愛」とでも言おうか。人間世界に存在しなかった愛である。
表面的なところで律法を学び生きても、キリストを信じる信仰によらない限り、神は人を義とされない。人間とはそれほど罪深い存在であることを、もう一度知らされる。だから、パウロは言いきったのだ。「私はキリストと共に十字架につけられた。」(ガラテヤ2:20)と。