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■ 蛇のように悟くあれ / マルコの福音書8:1~21 (2005-07-24)

二度目のパン記事が出てくる。いかに人々がイエスを慕い求めていたかが、伝わってくる。
 皆、腹の空くのも忘れてイエスと彼の言葉に渇いていたのだろう。実に彼らにとって腹は二の次であった。現代の教会は食事が先、と言う印象が否めない・・(猛省)
 

この時も彼らは食べ残しのパンくずを集めた。今風に言えば、「生ごみ」であるが、何故かごみにこだわっている。だが、こだわる理由は直ぐにわかる。出た生ごみの量で、どれほどの食料が人々の口に入ったかを計れるからである。たった7つのパンと僅かな魚であったが、イエスの手がふれ、祝福の祈りがなされ、それによって天の父の祝福が置かれればどんな奇跡だって起きるのである。と、言いつつも、現実面ではどうもピンと来ない不信仰者である。信仰の働く場所はやはり神がそのことを為してくれるか否かを考えあぐねる場所ではなく、まかせるしかない切羽詰った状況で、神を信じきって踏み出すところなのだろう。
 

 弟子達はそれほどの奇跡を二度も体験していたが、なぜか霊的な目が開かれていなかった。
 人間とは現実に目の前で超自然なことを見ても、心が神に向けて開かれていなければ神に栄光を帰することは出来ない。「神がしてくださったのだ」として、心の眼(まなこ)が開かれることが大切である。そう言う眼を持つと、日常生活の中であろうと、多くのことに対し、神のわざを認めることが出来る。武道で言う「心眼」に近い感覚であるかも知れないが、信仰の場合はあくまで、すべての中心は神である。
 

イエスは弟子達の会話を聞きながら、つくづく溜息をつかれた。「あなたがたはパン、と聞いて手元を気にしているが、5千人が食した時に、パンくずは幾つのかごだったか?」「はい、12かごです。」「では4千人では」「はい、7かごです」。「まだ、あなたがたは悟らないのか?」(そこに神がおられなければ、起こらなかったことだったのに・・・一体、何を見ていたのか・・・)との主の呟きが聞こえてきそうである。

 

そういう思いをもって聖書を読むと非常に楽しい。次々と新しい発見があり、好奇心は益々かきたてられる。例えばヨハネの福音書にカナの結婚式の場面がある。宴会の楽屋裏でイエスがしもべ達に言われた。「大きな瓶に水をいっぱいに満たしなさい」しもべ達は6つの非常に大きな水瓶を満たす。難行である。でも彼らは言われるとおりにした。宴たけなわ、ぶどう酒がきれた。タイミングよく主は言われた。「さあ、今、もって行きなさい」しもべ達は言われたとうり瓶から汲み、宴会の世話役の所へ持って行った。本来なら、こっぴどく怒られる場面であるが、世話役はその水を飲んで、花婿を大いに褒めた。「あなたはよくぞ、上等のぶどう酒を今まで残しておいたものだ。誰でも、後から安物を出すのに・・」
この場面だけ読むならば、悟るべきことはどこだろう。それは、「先ず主のことばがあった」ことと、「それに従う者がいた」ことである。この二つのことが重なる時、中心となる時、そこに神が栄光を現される。
 

 「蛇のように悟く・・」と言うことばがマタイ10章にあるが、そこで言われる蛇とは、狡猾な生き物としてではなく、俊敏で感知能力、機知能力にたけており、物事を瞬時に判断し、更に予知能力に集中する知恵を兼ね備えていることである。語られる神のことばに対し、蛇のように悟く向かい合うなら、信仰生活ほど楽しく素敵で、心踊るものはない筈だ。
 

 

 

 

 

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