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■ 私の信仰・他者の良心 / コリント第一の手紙10:14~33 (2005-08-07)

August 7, 2005

クリスチャンになると、自由が束縛される、と言うイメージがどうしてもつきまとう。
 「あれは駄目、これも駄目」というふうに思われているし、排他的にも見られている。
だが、聖書はそんなことは言ってもいないし、クリスチャンとて然り、決して束縛もされていない。勿論、ある教派の場合はやたら生活の隅々まで踏み込んで口をはさむところもあるかもしれない。しかし、それさえも理由があるからだ。クリスチャンになってわかったことは、「本当の自由とは何か」である。それまでは、「何でも出来るのが自由」と思っていたが、まったく逆だった。「しなければいられない」ことは本当の自由ではなく「しなくてもいられる」のが本当の自由だと気がつかされた。
 

 自分のしたいことをするのは自由ではなく、奴隷である。タバコにしても酒にしても、「吸わずともいられる」「飲まずともいられる」のが本来であるが、嗜好品になると、なかなかそうは行かない。結局、飲まずにいられないから、嗜好品の奴隷となってしまう。わずか数センチのニコチンの葉っぱの棒に、大の大人が翻弄されているのを考えると、本当に恐ろしいと思う。自分自身も昔はそうであった。自分が「そんな物の奴隷」と気がついたとき、なんとも情けなくなったことであった。
 別に嗜好品だけではない。不品行、情欲、むさぼり、怒り、悪意、そしり、汚い思いと言葉など、私達が知らず知らずに奴隷となっている。奴隷となっている自分を知らないことが一番恐ろしいこと、と思う。
 

 使徒パウロは言う。「すべてのことはしてもよい。しかし、すべてが有益ではない。すべてのことはしてもよい。しかし、すべてのことが徳を高めない。」(第一コリント10:23)
パウロはそういうところに生きていた。私は何でもできるが、徳とならず、有益とならないものは、決してしないでいられる。これこそが、神から給わった信仰の自由じゃないか、と、彼は言う。

 

自分中心で生きることに努力は要らない。なぜか?人間は元々そういう生き物だからである。だが、他者中心に生きようとすると、並大抵ではない。何よりも自分を後回しにしなけりゃ、出来ようがない。だが、神がこんな自分のために、大事な一人息子を十字架に掛け死なせて下さった、という世界が分かると、神の必死な愛に動かされて、俺だって少しは他人様のお役に立ってみたい、という思いが湧き起こってくるから不思議である。それは、他者中心ではなく、神中心なのである。他者中心には絶対に限界が来ると思う。だが、神が中心となると、無限である。なにしろ、自分が神から無限の愛をもらっているからだ。人間はこの愛によって、相手を選ばずに広く愛せる「博愛者」と変えられる。主義ではない。そのものになる。そして、なるのではなく、変えられるのである。自力ではない。神の力と愛がそうさせる。

 

パウロは自分の信仰を大切にした。誰だってそうである。時にはこのことによって、大議論さえ起こるし、他者を憎んだりもするが、そこまで行くと、何のための信仰か分からなくなるから、自分の信仰にはあまり拘るべきではない。なにしろ、信仰とは神からの借りもの、授かりものだからである。天国に入るまで預かったものであるし、天国に入ったら、要らなくなる(このへんが疑問の人は、是非教会に行って、牧師に聞かれたらよい)。

 

ところで、自分の信仰に頑張ってしまって、他者の良心を傷つける場合がある。クリスチャンなら一度や二度はきっとそんな経験があるだろう。パウロはこの部分を特に注目した。
 彼自身、気が強かったし、信仰も強かった。そういう場合、クリスチャンでない人や、信仰の浅い人、性格的に弱い人などの立場や気持ちを考えずに、強い言葉や行動によって振舞ってしまい、他者の良心に傷をつけたり、疑惑を投げかけてしまったりが多い。
パウロは言う。「知識のある、あなたの信仰によって弱い人の良心を傷つけないように」と。

 

 「誰でも、自分の利益を求めないで、他人の利益を求めなさい」(第一コリント10:24)。
これでさえ難しい。しかし、私達にも出来ると思う。自分の能力や力によってではない。キリストに仕えることによってである。あのマザー・テレサの愛は誰に対してだったのか?勿論、弱い人や死に行く人に、である。しかし、彼女とって目の前の置かれた人すべては「キリスト」であった。だから彼女はすべての人々に全身全霊を捧げられた。仕え尽くした。対象は死に掛かっているイエスであり、弱っているイエスであったろう。「私のために死んでくださったイエスさま」との信仰が、彼女をあれほど動かした。
 

 『こういうわけで、あなたがたは食べるにも、飲むにも、何をするにも、神の栄光を現しなさい。』(第一コリント10:31)
 聖書は決して否定的な書物ではない。消極的でもない。絶えず、建設的、肯定的である。
 私という小さくて偏屈な殻が打ち破られ、とてつもなく広い宇宙にさえも放り出してもくれる。永遠未来が無限に広がる神の世界にさえ、入るにふさわしい人間としてくれる。キリスト中心とは、自己虫から離れるたった一つの道である、とつくづく思う。
 

 


 

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