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■ I killed (私が殺した) /マルコの福音書9:30~32

September 11, 2005

イエスは弟子たちを教えて、『人の子は人々の手に渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて三日の後に、人の子はよみがえる。』と話された。しかし弟子達は、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていたと、マルコの福音書、9章31節は語る。
 

 私の罪を背負って、神の子は死んでくださった、とクリスチャンは言う。また、私の身代わりとして、十字架で死んでくださった、とも言う。だが、この箇所でイエスは「殺される」と言われた。
 私達はその時から2000年後にいる。彼を殺したのは、ローマの兵隊である。死刑への裁断は当時のユダヤ教指導者と律法学者たち、そして多くの群集の要求であった。2005年にいる私ではない。だが、彼が殺されたのは、彼の罪ではなく、人間の罪である。人間というからには、すべての人類であり、当然この私も含まれる。そして、あなたも含まれる。
 聖書は言う。「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・・」
 人類すべては、神の前に一人として正しくないのである。ノーベル章をもらった博士も、学者も医者も弁護士も、裁判官も、である。そして皆、間接直接を問わず、イエスを殺した当事者となった。
 

 渡辺正というドクターのことが新聞に載っていた。先生はご自分のお母さんの胃をすべて切り取った。それを母に告知しなかった先生に向かって、母は怒った。癌は再発し、母は地獄の苦しみの中にあった。当時、モルヒネを使うことを医者たちは敬遠していた。しかし、母の苦しみを目の当たりにして、先生はモルヒネを使った。安堵の顔で母は笑顔を見せたという。だが、10日後、母は死んだ。あといくばくの命であろうと、人は今を生きて喜ぶことも出来る。生は死で終わるにしろ、死は決して人間の終わりではないと先生は言われた。
 死に真向かう人ほど、生きることの真の意味を知る。死をこの世からの逃亡として考えるのは、理解は出来ても間違っている。人は本来生きるために生まれたのであり、本能として備わったものを否定するからである。
イエスは必ず来るその日から逃げることなく、十字架に向かって行かれた。

 

イエスはご自分の命が、殺されることによって失うと言われた。彼は人間を愛した。徹底的に愛しぬいた。それでも、殺されなければならなかった。
 「私のために死んでくださったイエスさま」と言うのと、「私が殺した」と言うのではまったく異なる。前者は自分を当事者として置いていない。恵みの受け手という認識でしかない。だが、後者は自分こそが加害者であり、当事者である。果たして、あなたはどちらに立っているのか?
そして、今から先、どちらに立ち続けるのか?
 

イエスは言われた。「人の子は殺され、そして三日後によみがえる。」
 彼がよみがえらねば、この世に希望と言う二文字は霞のようなものであったろう。どんな宗教を人間が作っても、絶望を増し加えるに過ぎなかったであろう。
 私が殺した!「I killed ! 」その私を赦してくださったばかりか、神の子供として生まれかわらせてくださった。イエスのよみがえりは私を罪から解放した。神の憐れみと慈しみがそれをもたらした。あなたは神に愛されている。あなたがイエスを殺したにも関わらず、神はあなたを愛される。これが、神の愛である。
 

 

 

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