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■ リバイバル / ヨハネの福音書4章16~19

今年度のリバイバル集会は、9月17日、18日と二日間に渡って開催された。福岡より竹田牧師をお招きして、神の福音を聞くことができた。魂の救い、そして呪いからの開放というテーマにそって話してくださった。素晴らしい二日間であったことを神さまに感謝、である。

ヨハネの福音書にサマリヤの女性が出てくる。彼女は6人目の男性と住んでいたが、その相手は夫ではなかった。そのために、彼女は日陰暮らしに甘んじなければならなかった。他人の目を気にしながら生きる毎日は重かったであろうが、彼女には為す術もなかった。水汲む時間も他の女性が行かない暑い真昼を選んだ。過去を振り返ってみても、どうしようもない。悔やんでみても時間が戻ろう筈もない。今は成り行きまかせのような毎日であったろうか。けだるい陽射しの中で、サマリヤの村も彼女の人生も淀んでいた。ゲリジム山に祭った神殿はエルサレムには決して上れない民の心を象徴してはいたが、置かれた民族の宿命としてはやりきれないものがあった。だが、待ち望む信仰のリバイバルはユダの人々には負けないものがあったと思う。 サマリヤの村に訪れたユダからの旅人は、救われようがない一人の女を通して信仰の復活と人生に投げかける強烈なパッションをこの村にもたらした。その男の名は、ナザレのイエス・・・・

ヤコブの井戸の側で、女はイエスから水を求められた。そこから始まったイエスの伝道と、彼女の霊を覚醒させる導きには、素晴らしいカウンセラーと伝道者の見本を見る思いである。人の人生がどれほど神から離れていようと、神が近づいてくださるのだから、その距離は皆無に等しい。問題は人の魂に対し、「渇きを覚えさせる」ことが出来るか否かであろう。創造主を知らずとも、人間の奥底には仮死状態の霊性が存在する。問題は、神の霊が人の奥底に触れてくださるかどうかによる。それを可能とするのは、人が選択権を持っている。閉ざすも決断、開くも決断、すべて人間の側の責任である。神は人の心を叩かれる。あきらめずに叩かれる。だが、人間は自分の思いを優先できる。そこに戦いがある。 人生でもっとも大きな戦いとも言える。永遠の命か、永遠の滅び、それだけの大きな決断であったことを、天国では喜び、地獄では後悔する。

イエスの愛と憐れみは、人生に傷ついた一人の女と、サマリヤの村人に届いた。そして、女を介してこの村に信仰のリバイバルが起こった。彼らに新しい今が始まった。戻らない過去だけを悔やむのでなく、神から離れていた過去が、誠の神に出会ったことにより悔い改めへと導かれた。リバイバルは上からの恵みを、人間が受け止めた時にやって来る。ここ以外にない。

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