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■ 幼子を押し止めたイエスの教会 / マルコの福音書10:13~16

ある日、大人たちが幼子を連れてイエスの前にやって来た。子供達にさわって欲しいと考えたからである。親心である。この子の将来が祝福され、健康な人生であるようにとの思いであったろうか。今も昔も親の気持ちは変わらない。だが、イエスの弟子達は彼らを叱った、と聖書にある。
 

 

 私はイエスを取り巻く弟子達を「イエス様の教会」と考えた。彼らは教会の原点である。
だが、イエスさまの教会は随分と頼りないのである。情けないほど、その信仰が揺れ動くのだ。どうして、イエス様の教会はこんなに頼りないのだろう、とついつい思ってしまう。
 彼らはあのゲッセマネの園で祈っておられる主をどう見たのだろう。イエスの涙と汗は血のように滴り落ちたと聖書は言う。しかし、彼らは不覚にも眠ってしまった。イエスを捕らえにやってきた連中を見たとき、逃げ出した。十字架のときも、殆どの弟子はいなかった。イエスの体が墓に葬られた後も、彼らはひっそりと部屋の中でこもっていた。三年間、弟子達は目前で何が起こったかを、学ばなかっただろうか。風や波がイエスの一声で静まり、死んだ人が墓から出てきたことを彼らは見ている。片や、私達は一切そういう現場を知らない。
なんともイエス様の教会は救いようがないのだろう、とさえ思う。よくぞ、こんな連中を12弟子と呼んだものだ、と。
 

しかし、である。そう感じてしまう私達現代の教会は果たしていかがなものだろう。私達もイエスの教会である。彼らは肉眼でイエスを見たし、触れもした。だが、彼らにとってイエスこそ神の一人子であり、十字架によって全人類の罪を背負われたと言う聖書の真理は、当時知らなかった。主はよみがえる、と聞いたときも、その事実を察してはいない。何よりも彼らの内側に聖霊がおられなかった。つまり、肉眼でどれほどの状況を見ようとも、聖霊が働いておられなければ、神の永遠と全能に結びつかない。一方、私達イエスを受け入れた者は、肉眼ではなく、霊の目で彼を見、霊の耳で彼の声を聞く。置かれた状況が全くことなる。
 

さて、冒頭の場面である。子供達を拒んだイエスは憤られて弟子達を叱ったとある。そして言われた。「子供達を私のもとへ来させなさい。神の国はこの様な者たちのものである。あなた方も子供のように神の国を受け入れるのでなければ、決してそこに入ることは出来ない。」
 子供をイエスの所へ連れて行かなければ、止めているのと同じだと思う。連れて行って、仮に子供が嫌だと言えば仕方ない。だが、大人は子供達をイエスのところへ連れて行く義務がある。そういう教育を教会はしているだろうか。そういう思いで教師は任務に当たっているだろうか。イエスの前に連れて行ってないなら(子供が選択を促されるような)、子供を押し止めているのである。牧師も教師ももう一度、考え直してみたい。神の国にどれだけ熱い思いをもっているのか。仮に恋焦がれていないなら、とても子供をイエスのところへ連れて行けないであろう。自分が今いる場所が、イエスの前でなければどうして他の者を連れて行けようか。ひょっとして、現代のイエス様の教会は当時の弟子集団と、さほど違わないかも知れない、と考えるのは、私だけだろうか・・
 

 

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