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■ 天の王国 / マルコの福音書10:17~31

一人の青年がイエスの前に進み出た。彼は裕福な家の長男であったろうか。そして道徳的にも宗教的にも秀でた人であったと思われる。だが、彼の魂は渇いていた。どれほど今が恵まれていようと、やがては老いてこの世を去る。現状の健康が生涯続くわけでもない。彼の内側では平安が揺らいでいた。そして、彼はイエスが来られるのを知って、このチャンスを逃すものかと待っていた。そして、青年はイエスの前に跪いて尋ねた。彼の中で何かが弾けたような、素晴らしい日の始まりであった。

「素晴らしい先生、私が永遠の命を受けるためには、何をしたらよいのでしょう?」 青年の言葉に二つの大切なものをみる。一つ目、彼は永遠の命を求めていた。現代、誰が永遠の命を求めて教会に来るだろう?先ず、いない。なぜなら、キリストを信じ、受け入れて初めて知る命だからである。一般の我々が想像はしても、初めから相手にもしない問題である。二つ目、彼は何をしたら、と尋ねている。何かをしたら貰えるもの、と考えたが、ここに彼の日頃の誠実と言おうか、実直性を感じる。彼にとって行動こそが、何かを得てゆくことの代償であったのだろう。何もしないで得るものだけを得て行こうとする輩とは大分出来が違う。そしてイエスは彼に問うた。

「ならば、あなたは律法を知っているか?殺さず、姦淫せず、盗まず、偽証せず、両親を敬っているのか?」 青年は即座に答えた。「先生、私はそのようなことなら、小さい時から守っております。」 イエスの質問に彼は当然の如く、間髪を入れず、答えている。『・・今更何をおっしゃるのですか?この私に限って何の落ち度もあろうはずが無い・・』彼の内なる思いが伝わってくる。

イエスは彼を見つめ、彼を慈しんでポツリと言われた。「あなたには欠けたところが一つある。家に帰ってあなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に与えよ。その上で、わたしについて来なさい。」

彼にとって道徳もモラルもすべて外面的な対応であった。世の中にあって誰にも迷惑をかけたのでもない。人から非難されたこともない。だが、イエスはそんな青年の思いを、彼自身の内側に向けさせた。確かに迷惑を掛けなかったかも知れないが、人を助けたことがあるのか?確かに人の幸福を奪ったことは無くても、人に幸福を施したことがあるのか? そこに浮かび上がってきたのは、自分の為にだけ生きてきた自己中心的己が心と人生であった。彼が人生で経験しなかったこと、それは良心の痛みではなかったろうか。それを人間のすべてが持っている。捨てようがないものである。だが、人間はこれを無視することが出来る。だが、イエスに向かい合った者は、己の代わりに聖霊が良心に向かい合う。そこにおいて良心よりも正しい神の御霊、聖霊が立ち上がるとき、人は神の真実から逃げられない。青年は今、そこに置かれた。

青年は、イエスの言葉を聞くと、顔を曇らせ、悲しみながら去って行った。彼は多くの財産を持っていたからである。彼が無視できないもの、それは豊かな彼の財産であったが、それ以上に無視できないものは、彼自身の我であった。イエスの語られた内容の厳しさではなく、その言葉に従えない己が弱さと罪、いかんともし難いこの世の宝への愛着であった。だが、この後の弟子とイエスの会話に、すべての人間にもたらされた希望を見る。 これぞ、新しい約束の幕開けとなったみことばである。 「それでは、誰が永遠の命をもらえるのですか?」 「人には出来ぬが、神にはどんなことでも出来る!」 状況がいかであろうと、環境がいかであろうと、このみことばが語られた限り、誰であろうと、明日に希望を見る。

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