■ 2006年、恵みの戸が開く / 第一歴代誌14:1~15:2 (2006-01-01)

扉には幾つかの開き方がある。引き戸があり、押し開けるものがあり、また引いて開ける、上下させるものなどであるが、恵みの戸はどういう開け方をするのだろうか。 2006年が訪れた。望む、望まないに関わらず、やって来た。時間の世界であるから当然であるが、正月の風景は独特のものがある。昨日と同じ風景なのに、何かが違う。まことに不思議である。

ある先生が本に書いておられた。人間にとって生き甲斐となるものが三つある。 一つには、すべきことがあることだ。これが生き甲斐をもたらす。自分が必要とされていることは素晴らしいものである。二つ目に、愛する人がいることだ。家族、友人、どんな対象であれ存在することは素晴らしい。三つ目には、待ち望む対象があることだそうだ。楽しみがあることは生き甲斐というものを必然的もたらす。仮に三つ揃っていなくても、構わないと思う。どれか一つがあれば、幸せ感につながる。だが、大抵が死ねば終わりのものだらけである。出来るなら、永遠につながるものがいい。そんなものが、一体この世にあるのだろうか。実はある。たった一つ。それはイエス・キリストを知ることだ。

昔、イスラエルにダビデと言う人がいた。一介の羊飼いの少年だったが、こと神を信じることにおいては素晴らしいものがあった。幾多の困難、それも数十年を経てのことである。彼はイスラエルの二代目の王となった。イスラエル国民は勿論、聖書を読んだ人でダビデの名を知らない人はないくらいである。文武両道に秀でており、知恵と感性においても右に出るものはいなかった。そして、神を仰ぐ信仰においても右に出る者がいなかった。

ある戦いのとき、ダビデは先ず神に祈った。今、戦うべきか否かを。私達には彼の真似は出来ない。どうしても神より自分が先に出てしまうからだ。だが、彼は神のみ旨を優先した。万事がこれであったから、彼の行くところ、戦うところ、負けはなかった。神が「行け」と語られるとダビデは出陣し、神が「待て」と言われればダビデは待った。神はダビデを祝福し、それがダビデを離れることはなかった。ダビデの生き甲斐は、神を礼拝し、神をたたえることであった、と言っても過言ではない。 だからと言って彼が完全な義人ではなかった。彼は忠実な部下の妻を自分のものとし、ダビデの策略によりその部下は戦死してしまう。このへんは、聖書を読んでいただきたい。

一年の念頭に立って、開かれた365日を見据えたとき、やはり心引き締まるものがある。神の臨在が365日のすべてにあるように願う。願うからこそ、日本人は神社やお寺に行く。だが、教会は初詣とは言わない。初礼拝とも言わない。いつも神の恵みの前に置かれているのであって、こちらが中心ではないからだ。人間が中心の場合、初詣と言う。だが、キリスト信仰は神が中心である。礼拝に出て、新年を開けて下さった神に感謝し、神を賛美する。恵みの戸が開かれるように。恵みの戸は外に向かって押し開く。それは人間の心の戸と同じである。それが分かったのは、キリストを自分の心にお迎えしたときであった。イエスはあの日、私の心の戸を激しくノックされた。開けないでいることが苦しかった。わけも分からず、聖書の神を神と信じた。それ自体が、外に向かって開く扉だった。 それ以来28年、キリストは私と一緒に歩んでくださった。感謝と言う表現以外に適当な言葉は見つからない。実に心を開くとは、心の扉を外に向かって押し開くことであることをあの日、知らされた。

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