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■ 人生はいつも神への道 / 創世記39:1~23 (2006-01-29)

「据え膳食わぬは男の恥」などと言う言葉は、ヨセフの心の片隅にもなかった。 彼はまさにイエスの雛形と言える。旧約の中で、キラリと光る存在、それがヨセフであった。兄弟からエジプトの奴隷商人に売られ、地下牢のようなところで、見えない光を暗闇の中に求めて行った青年は、やがてエジプトの宰相の座に着いた。F・Bマイヤー師が言っている。『ヨセフが生きた暗く長い地下道は、王座への道であった』と。アーメン

奴隷として売られても、場合によっては良き人生もある。ヨセフを買ったエジプトの高官は、ヨセフから真実以外のものを見なかった。高官の家の執事のような仕事まで任されたヨセフであった。だが、誘惑は彼の身近なところからやってきた。理知的で美男子であったヨセフに高官の妻が言い寄った。しかし、ヨセフは決して心を揺るがさなかったのである。彼は言った。「私の主人であるあなたの夫にも、そして神にも私は罪を犯すことなど出来ない」と。だがある日、家人がいないのを見計らって、女は理由をつけてヨセフを自室に引っ張り込んだ。だが、ヨセフは断固として彼女の誘惑を拒み、その部屋から逃げ出すも、上着を引っ張った彼女の手に理由がつかない証拠を残してしまったのであった。怒った夫はヨセフを牢にぶち込んだ。

わずかに見えていた灯りをもぎ取られたヨセフに、私達は何を言えるだろう。もし、その場に居合わせたとしたら、「神は何をされているのだろう」とか「神はいない」とまで口走ってしまうかも知れない。 だが、聖書は灯りを消さない。こう書いてある。 「主はヨセフと共におられ・・・・」 「主が彼と共におられ・・・」 「主がそれを成功させてくださったから・・・」

すべての希望が遠のき、暗闇がすべてを覆っても、キリスト者は消えない灯りを持っている。それは「主が共におられる」からだ。死が近づき、絶望の谷に突き落とされる時にも、キリストは隣におられる。私達に実感できるか否かの問題ではない。主は共におられると聖書が断言する限り、それを信じよう。何が信じられなくとも、それを信じよう。

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