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■ 主こそ我が岩、我が救い / ルカの福音書22:43~62 (2006-03-26)

キリスト者は自由である、とつくづく思う。と、同時に今も肉的性質の虜になっている部分もある。昔は自分がサタンの支配下にあることさえ、気がついていなかったが、それこそがサタンの狡猾極まりないところである。だが、既にキリストが罪からの開放をしてくださったのであるから、上を見上げつつ前に進むことが良い。たまには後ろを振り向いての反省も大切であると思う。
 


 新約聖書の福音書は四人の人によって書かれているが、それぞれに味もあるし、特徴もある。ルカという人は医者であったと聞く。医者らしい繊細な目と心でイエスや人々を観察し、その事実を書き記した。彼の目には裁きがない。その事実を優しい眼差しで見ていた。そこには同時にイエスの眼差しがあることが、かぶってくる。イエスご自身が、誠の医者であったからだろうと思う。人々の魂と体を癒された。実に素晴らしい医者であった。彼のところに行って頼みこんだ人で、断られた人はいないし、癒されなかった人もいない。
 現代のキリスト教会、イエスさまにはとてもかなわないとしても、イエスが働いておられるから、魂の癒しも開放もある。そして、そう置かれるべきと思う。
 

イエスがゲッセマネの園で祈っておられた時、弟子達は眠りこけてしまった。イエスとの別れが近づいた悲しみと疲れで、どう仕様もなく睡魔に襲われた。この場面、イエスが三人の弟子に言われた言葉が胸に痛く響く。あてにならない弟子であったが、イエスは彼らに頼んでいるのだ。「どうか、眠らないで祈っていなさい。」その理由はイエスのためでもあり、天の父の御心が先ず行われるようにとの思いであったろうか。そして、弟子達自身の信仰のためであったと思う。
 

 「神こそ信仰の岩」と聖書は言う。動かぬ砦であり、如何なる状況にも頼りになる岩である。
 私達が生きる世界、確実と言うものがない。すべてが不安定であり、移り変わる。この命さえ明日はわからない。99%においては言い切れても、100%は存在しない。

 

ペテロはイエスの一番弟子を自負していた。自信があった。イエスが殺されるなら、喜んで死ぬ、とも言い切った。だが、彼は数時間の後、それを自ら覆してしまう。イエスは捕らえられ、裁かれる場所を覗き見ながら様子を伺った。焚き火の灯りがペテロの顔を浮かび上がらせたとき、女中が言った。「あなたはイエスと一緒にいましたよね。」ペテロは即座に否定した。ペテロにとって焚き火の頼りない灯りが、サーチライトのように強い光に思えたことであろう。暗がりで誰も自分を知らない筈、と踏んでいたのに。彼は三度イエスを知らないと断言した。

 

ルカは記す。「主が振り向いてペテロを見つめられた。」
そして「ペテロは外に出て激しく泣いた。」イエスが名づけたペテロ(岩・石)というニック・ネームが気に入っていた彼であったが、今、思い知らされたのは、どうすることも出来ない人間の心の弱さと移り変わりであった。荒くれ漁師は号泣した。
 

だが、ルカの記したイエスの眼差しに怖さを感じない。何故か、優しささえ感じるのは不思議である。そう、神は私たちの弱さを十分にご存知である。心が移ろい易いことも、変りやすいことも、自分を守ることに先走ることも。それでも、主は私達を選ばれた。否、だからこそ選ばれたのかも知れない。実に天地の中で岩と呼ばれるに相応しい方は神しかおられない。
 

 

 

 

 

 

 

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