■ 荒地も耕地に / マタイ13章3~9、18~23 (2006-04-23)

神の恵みは多種多様、限りない方法と状況をもって我々に降り注ぐ。問題は私達の側で、そのことに気がつかないだけである。マタイ13章の種まきのたとえは、神がすべての人に対し、あらん限りの恵みを給わっていることを語っている。有名な農民画家、ミレーの「種蒔く人」の絵があるが、よく見ると遠くの空に見えるものがある。それは、蒔いた種を目当てに飛んでやってくる沢山の鳥の群れである。それでも、農夫は種を蒔き続ける。

聖書は種が落ちた四種類の場所について語る。しかし、見方によっては一人の人間の変化の過程の様にも考えられる。 当初、聖書の言葉に無関心だった人は、心は丁度道端のようだった。人や牛馬に踏み固められた道端は、種を受け入れそうで受け入れない。もどかしいような場所であった。種自体、踏まれてしまって死んでしまう。私自身もそうであった。聖書の言葉を聞いても、全く関心を持たないし、持ちようもない。牧師のメッセージもチンプンカンプン・・当然である。種の目的と自分が置かれている環境が正反対だから。

そんな心にイエスが入ってくださった。有難い!何もかもが新鮮!聖書の世界が迫ってくる。全く新しい世界、新しい空気と価値観!飛びついた!・・・だが、甘くなかった。思うように事が進まないのだ。自分の心の浅さに気がついて愕然とした。神の前に恥ずかしい。聖書をほっぽり投げてしまいたい・・・まさに岩地である。土は上っ面にわずかにあるだけ。種など根を出してもはりようがない。でも、感謝である。神はそのような場所にさえ種を落としてくださった。イエスの血の代価である。もう一度、出直して見よう。そんなクリスチャン時代でもあった。

やがて・・・様々な人生の経験、教会生活での切磋琢磨、自分は明らかに成長過程を走っている。なにか大人になった気分だ。時として、嬉しく叫びたい日もある。 だが、思いがけない所に落とし穴があった。それは、やってきたと言うより、自身の内側の弱さを暴露してしまうような世という世界の迫りであった。足元をすくわれ、もんどり打って倒されてしまった。つくづく己れの弱さを知らされた。そして、学んだ。人は自分の力で立ちおおせるものではないことを。

誰もが出会い、そして超えねばならないハードルである。そこで知る神の臨在の力と憐れみ深さ。どんな場所だろうと人生だろうと、イエスは降りてくださった。そして、知る良い地の尊さ。種など生きられないように思えた時もあったが、神の忍耐に負け、種が芽を出し根を張り葉をつけ、花を咲かせ、実をならせる日もやってきた。信じられないような、神の恵みと祝福の世界を知った。決して万全ではない自分であるが、神が絶えず守っていてくださる。

荒地の心、荒地の人生。だが、キリストは雑草を取り、鋤を入れ、掘り起こし、石ころをどかして素晴らしい耕地としてくださった。もう、決して戻るまい。昔の自分には。

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