■ これがペンテコステ / 使徒の働き2章1~8、36~42 (2006-06-04)
ペンテコステ、イスラエルの暦では『五旬節』と言う。農耕暦とでも言おうか。しかし、そこにまつわる意味は多様なものがある。だが、この日、イエスの弟子達や彼を信じる者達、そして後世のキリスト教会にとって忘れることの出来ない事件が起こった。故に教会はその日を覚えるためにペンテコステの日、と呼ぶ。その日、聖霊なる神は火のような舌をもって弟子達一人一人にくだったと聖書は語る。すると不思議なことが展開した。彼らは他国の言葉で互いに話し出した、とある。その言葉は明らかに外国語であった。
異言、という言葉が新約聖書のパウロの書簡に頻繁に出てくる。この異言とペンテコステの外国語は明らかに異なる。彼らは外国語、それも自分の喋った経験もない言葉を突然話し出した。まるで互いに会話する如く、色々な国言葉が飛び交ったのである。あちこちから来ていた人々は、それを聞き分けてみると驚いた。喋れるはずのない国語、近隣諸国の国語を耳にしたからである。一方、異言なるものは人に向かって話すのではなく、神に向かって語るものだと、聖書は言う。それを聞いても通常は理解できない。つまり、外国語ではない、からだ。舌が自然と言葉でない音を発する。つまり、異言とは神に向かって、隠された真理を語るものだとも言われる。
異言に関して言えば、それを語っても自分の徳を高めるだけであって、教会や神に栄光を帰するものではない、とコリント14章は言う。神にだけ向かって語るのだから、その人、個人だけの世界の中でのことである。聖書は明確に言う。異言を語るものは、解き明かしが出来ない場所、集まりでは語らないようにと。何故なら混乱をきたすからだ。 聖書は言う。「神は混乱の神ではなく、平和の神である。」と。(第一コリント14:33)
ペンテコステと言うと、何故か異言というものだけが誇張されている。しかし、大切なことはその少し後に起こった。ペテロが聖霊に満たされてメッセージしたとき、人々は自分の心が掘り起こされ、十字架にイエスを掛けた罪の所在が己が内にあることを気づいた。 そして、罪から救われ、赦される必要は彼らに悔い改めへと導いた。そしてその日、3千人がバプテスマを受けたとある。ペンテコステの真の意味はここである。起こった不思議な言葉の問題よりも、多数の者達が神に立ち返ったことである。教会はここに焦点をあてるべきである。
非常にセンセーショナルな出来事であった。だが、聖霊は世界の端っこにある小さな場所にも働かれる。誰も知らないような場所でも、聖霊は働いておられる。信仰と救いの灯を灯しつつ、時代から時代へと人々の魂に宿って行く。
日キ教団の先生が書かれた日記の一部にこういう箇所があった。 過疎の村に一人の牧師が住み、農村伝道に取り組んだ。(おそらくこの国の伝道で最も難しい局面であろうか。) 数年後、牧師はその村から身を退いた。(どんな思いで去って行ったのであろう。胸が痛む。) それから35年後、その村人の一人が危篤状態になった。彼は息子に告げた。 「自分の葬儀は必ず、キリスト教式でやって欲しい・・・」父の苦しい息の下で聞いた遺言のような言葉に、息子は親戚中の猛反対を押し切って、隣町の牧師に電話をかけて、葬儀の司式を頼んだ。 やって来た牧師は庭まで埋めた村人に向かって、聖書から福音を語った。家の娘がどこからか十字架のペンダントを持ってきて、棺の中に入れた。キリストの福音が届いたか届かなかったかわからない。届いてくれたことを願いつつ、牧師は帰りの道を引き返した。 曲がりくねった山道にハンドルを合わせながら、牧師は心の中で天国の牧師に向かって叫んだ。「宮崎先生、喜んでください!」
福音の種の成長は人の目には映らないことが殆どだ。何故なら、その種を運ぶのも育てるのも、聖霊であるからだ。人はそれをひたすら信じることだけを神は要求されている、と思う。知らない場所で、知らないところで、知らない内に花を咲かせ、実をつける。あるときは3千人のバプテスマ、またあるときは日影に咲いたような小さい花。だが、これも聖霊の実である。
イザヤ書42章 『彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。 彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、その教を待ち望む。』 アーメン、主の働きに栄光あれ。