■ 神に責任を問うた預言者 / 第一列王記17:16~24 (2006-06-11)
クリスチャンにとって大きな試みは、いかなる時も変らぬ信仰をもって行き続けられるか否か、ということだと思う。順風満帆の日に比べ、天と地、雲泥の差ほどの自分を知らされる場面が人生には訪れる。だが、神は私達に対し、人の弱さを教えたいのだと思う。そうでなければ、人は己の力と能力を過信し、神も信仰も必要としなくなるからだ。
エリヤはシドンに遣わされた。神はそこの貧しい母子家庭により大の男のエリヤを養わせた。エリヤは己の弱さを知らされる必要があった。誠に神に遣わされる器は、自分の弱さをしみじみ知らねばならない。そうでなければ、神に信頼する者となり得ないからである。
エリヤを含め三人は生き延びた。今日の分量でしかないパン粉と油は、来る日も来る日も瓶の底に壷の底にあり続けた。彼らは長いこと、そうやって生きた、と聖書は語る。 しかし、悲しみが彼らを襲った。その家の小さい男の子が死んだのである。すると、母親はエリヤにその責任を迫った。「あなたは、私の息子を死なせるために来たのですか!」
エリヤは胸を締め付けられる思いであったろう。・・神はどうして今日まで生かし、そして今、この子を召されたのか・・ 私達に迫る突然の悲しみに対し、私達は心を強くし、それを迎える備えは持てない。人間はまったく無力だ、という場所に立たされて、一体何ができるのだろう。神は生かし、神は命を召し上げられる。神は与え、神は取り去り給う。そのことに対しては呆然自失しかない。今日まで生かされた意味さえ見失う。日曜に教会へ行き、礼拝し、奉仕をし、水曜に祈り会に行く。そのこと自体に、人は自然とみかえりを求めているのかも知れない。人生の多くの時間を捧げて来た、という自負が芽生え育っているのかも知れない。それが間違っていたことを知らされた時、信仰は完全にリ・セットされてしまうのであろう。だが、人とはそれ以上のものではないのである。
エリヤは死んだ息子を抱き上げて屋上の部屋に入り、息子を寝かせた。 そして、彼は神を詰問した。「私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえも災いを下して、彼女の息子を死なせるのですか?」 神の言葉に従って生きる者でしか、言い得ない言葉であった。 そして、神に従いきれない私達も同様に言うのである。ここに大きな違いが浮かび上がる。 だが、不自然ではないのだ。何故なら、十字架のイエスによって、私達もエリヤ若しくは彼以上の恵みの座に置かれたからである。これこそ、新約聖書の時代に置かれた者の、確かな恵みと祝福である。 このことに対し、主に応答する人生を生きていく筈の私達であるが、果たしてどうだろうか・・・
そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」 主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。 如何なる状況の中でも「私の神よ、私の主よ」と祈れることは尊い、と思った。