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■ あなたはそこで何をしているのか / 第一列王記19:8~21 (2006-08-06)

預言者エリヤは死を望んだ。 彼は心身共疲れ果てていた。今、彼の目に映るものはむなしい人間世界だけであった。 考える気力もなかった。彼は目を閉じた。閉じこもった場所は洞穴である。彼の魂の居場所に相応しいものであった。洞穴には先がない。向こうがない。行き止まりである。丁度、彼が置かれた状況でもある。

人生はトンネルでありたい、と思う。トンネルならいつか抜けられる。今は見えずとも、必ず向こうに出口がある。それを信じて生きるのと、洞穴の人生では大きく異なる。今は暗くても辛くても明日がある。向こうがある。まさにヘブル人的発想である。 「こうして夕があり、朝があった。」と創世記1章にある。 日本人的思考はそれとは違う。朝があり夜が来る。だがヘブル人思考は夕から始まる。ユダヤ人は世界のどこに追い立てられ、いかなる迫害を受けようと生き残った。それは民族思考の中に、ヤハウェの主が語られた真理が染み付いているからではないだろうか。つまり、今は夕、今は夜でも必ず朝が来る、というものだ。そうありたい、と思う。

神は仰せられた。「エリヤよ、そこで何をしているのか?」 エリヤは言った。「私は熱心に主に仕えました。しかし・・・・・」と彼は思いどおりにならない人の世を憂い、神に申し上げた。だが、神はエリヤに向かって直接的、具体的に答えられず、ただ言われた。「外に出て、山の上で、主の前に立て!」 エリヤの心は殻の中だった。そして体は洞穴にあった。そこには解決も勝利もない。

人生とは悩みが多く疲れるものだ。思いどおりにならない人間社会、家庭、そして最も思いどおりにならない自分を抱えている。私達にとって一番厄介な敵は自分かも知れないと思う。もしかしたらエリヤ自身、そこにいることに気がつき始めていたのかも知れない。 神の言葉を地に捨てたこの国と民、いくら語ろうと耳を貸さない民、そして仲間の預言者を大勢殺した国。エリヤの熱心はそこで燃え尽きたのであろうか。

だが、神は疲れない。決して挫折しない。だから神なのである。だが、人間はそれを忘れてしまう。私の熱心が世を変えるのではない。神の熱心が人を救い、世を変えるのである。イザヤ9章7節にそうある。救い主イエスが来られ、十字架で殺され、三日目によみがえられた。その彼を救い主と信じ、受け入れる者は救われる。そのことは「万軍の主の熱心が成し遂げる」ことなのである。人間はその主にあって用いられ、霊的祝福を得つつ、勝利の分け前さえいただく。

今、信仰の旅路で疲れ果てた人よ。 思いっきり休むがよい。 そして、自分を裁かず、自己卑下せず、今日まで助け導かれた主をたたえよう。 主は穴の外で待っておられる。あなたを・・・

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