■ その日のために今を生きる / 第二列王記2:1~14 (2006-09-10)
エリヤは燃える火の車と馬に乗って、神の国へ旅立ったと聖書にある。それは同時に死を意味する。だが、我々の迎える死とは大分異なる。彼は生きたまま、天に上げられたのだ。
人はそれぞれいろんな死に方をする。アルコール中毒で死んだ人の遺族に向かって医者はこう言った。「自然死です・・・」、つまり栄養失調であった。殆ど食事が喉を通らないのであるが、酒だけは入ったのである。珍しい病名であった。現代の日本、それもリッチ・マンの彼が、である。
最近の新聞の記事。A官房長官の叔父にあたる方は、新聞記者とのやり取りの後、記者に電話して言い残したことを確認し、翌日急逝された。その方は、今の政治家と日本人に注文をつけた。「タカ派の政治家ほど、戦争を知らずに平和ボケしている連中だ。靖国問題にしろ、A級戦犯との表現が気に障るのなら、320万の同胞を死に追いやった責任をどう取るのか。」などなど、まさにそのとおりだと思った。一銭五厘の赤紙一枚で行きたくもない戦地へ行かされ、死んで逝った兵隊さんにとって、戦犯と同じ場所で祀られる祀られるなど、もってのほかではあるまいか。
アメリカに旅行する際、いつも思うことがある。5千メートル位の上空からアメリカ本土を見て、つくづく「デカイ!」と思う。そして、日本はなぜこんな国に戦争を仕掛けたのだろうと思ってしまう。火力、軍隊、資源、どれを見ても勝てる要素など、見当たらない。それとも仕掛けるように仕向けられたとでも言いたいのか。 無鉄砲そのものであった。極東で周辺を脅かしていたにしろ、とても太刀打ちできる相手ではなかった。結局、井の中の蛙たちは、多くの国民を死に追いこみ、南の島や沖縄を、そして本土さえも焦土と化したのだ。更には原爆が落とされるときまで、状況と将来を把握できなかったのか、はたまたしようとしなかったのか。竹槍やこん棒でもって、上陸してくる米兵とやりあうことさえ、真剣で考えていたとは。置かれた状況を知らない無知な民は恐ろしい。命の尊さよりも、死の美学を優先した民は決して前向きな生き方など出来ない。
誰もが迎える死。逃げられない死。今夜かも知れない死。まさに生きるとは死に向かっている、こととも言える。しかし、私達は死ぬために生きてはいない。生きるために生きている。生きているから生きて行く。置かれた環境も千差万別。困難の中でも、試練の中でも、みんな生きて行く。中には仕方なく生きている人もいるだろう。 だが、生きることは一度だけなのだ。死は一度通ればもう来ない。生きることは尊いのである。だから無駄に死んではならない。 生きることを問いつつ、主に向かう。悩みの中でキリストに向かう。そうすれば、道は100%見つかる! エリヤは神のことばに生き、従い、戦った。自分と戦い勝った。敵と戦い、勝った。 そして、彼は神の国を勝ち取った。
この国は有史以来、創造主を拒み続けてきた。だが、キリスト教が日本を圧倒した時代もあった。瞬間的でしかなかったかも知れないが。 安土桃山、そして明治、チャンスはあったが、根付かなかった。見えない力がこの国を覆っている。創造主やキリストは拒むが、神々を信奉すると言うより、恐れることの得意なこの国だ。それでも、キリストはこの国を見捨てられなかった。今日までは。 今日、この国のキリスト信徒はエリヤの到来を祈るべきであろう。それよりも、自身がエリヤの如く、生きるべきであろう。一度の生を神に捧げて。