■ 神を信用しなさい / ローマ人への手紙1:7~15 (2006-10-15)

「あなたは主である神を信じていますか?」と聞いたら、クリスチャンはすべて答えるであろう。「はい、勿論です。」 次に、こう聞く。「あなたは神を信用していますか?」 答えは「・・・・・・?」 信じましょう、が牧師の歌い文句なら、信用していますかは、神に対して何と失礼なことか、と思うが、決まりきった応答ではなく、もっと深みに網を降ろしてみたい、と思った。

クリスチャンにあって神を信じると言えば、髪の毛の先であろうと、爪の先であろうと、問題なく答える。しかし、本当に「神を信用していますか?」と聞かれたら、何故か「ムッ」とする。然り、私も同様である。当たり前であって当たり前でないのが、人間の心と信仰だと思う。昨日は疑いなく信用していても、今日は空も怪しいせいか、昨日とどことなく違う思い・・・これが人間だ。

信用しきっていれば、主から何を問われても、聞かれても、命令されても、「ハイッ」と言える筈だが・・・事とケースによって、そう言えないのは、信じてはいても信用できていないからだと思う。日本人とは各も細に入って心を言い表すのが得意な民族である。その訳は、何ともつかまえ難い民族性だからであろうか。のらりくらりと言い逃れし、本心は中々現さない。そういう自分も同じ穴の狢(むじな)であるが・・・

パウロは実にキリスト・イエスを信用しきっていた。彼は財、時間、人生、そして命さえも主に託し、ゆだねきっていた。見事である。私も「見習いたいものだ」などと思っている限りは、いつまで経っても「見習いたい域」だけであって、決してそこから前に出ようとしないし、出られない。もう一度、主を信用し直そう!と思う。そこには命さえ投げ出す覚悟がなければ出来ないであろうが、神に信頼しつつ押し出された場所なら、必ずや主はその場所に応じたものを備えて下さると信じて行こう。

主に対する信用度を考えて見た。 番号が大きくなる順にレベルも高くなる。 1、聖書的考え方を人生の参考にする 2、聖書的考え方を人生の指標にする 3、自分の時間、財産、人生に関わる場合、「出来るだけは・・」と言う生き方 4、自分の時間、財産、人生に関わる場合、「ここまではOK」という制限付き 5、すべてを主なる神に託す無条件降伏、無制限譲歩.

@さて、あなたはどのへんに位置しているだろうか。今後の発展のために今を知ることは決してマイナスにはならないから、自分に向かい合って見たい。怖がらずに・・・

人が主を信じ信用すると、神さまはその人を「義」と認めてくださる。これは旧約聖書の教えである。 昔、アブラハムという人は老人になっていた。妻もすっかりお婆ちゃんになってしまった。子供など生まれるような環境には程遠くなった。可能性の「可の自」も見えない。全くの無、であった。 ある晩、主はアブラムを真っ暗闇の外へ導かれ、そして言われた。 「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」 アブラハムは思わず空を見上げた。ダイヤモンドを散らばした様に、無数の星が光っていた。 さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 彼の心によぎるものがあったかも知れない。・・・(こんな老いぼれに子供など生ませられようか。妻のサラにしてもそんなことはありえない・・・だが、この天と地を造られた神に不可能があろうか。いいや、あろうはずもない! 無から有を呼び出すことが出来るからこそ、神なのだ!) 彼は心に導かれるまま、神の言葉を信じ、そして神を信用した。)

聖書は言う。 創世記15章6節・・・彼は主を信じた。『主はそれを彼の義と認められた』

主がアブラハムを信用してくださった。そして永遠に彼を祝福の基とされた。 信用し、信用されるとは素晴らしいことである。特に、神が私を信用してくれるとは。

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