■ 人の心、その不思議 / ローマ人への手紙1:16~25 (2006-11-05)

人の心にはツボがある。泣きのツボ、笑いのツボ。 どのようなきっかけがあるのか、人には分からない。だが、一旦そのツボにはまってしまうと、中々抜け出せない。笑いは止まらず、涙が止まらない。非常に不思議なツボなので、私はタコツボと呼ぶ。仕掛けてある場所も仕掛けも分からないから。

人の心、実に不可思議だ。創造主が不思議な方だから、人間にも不思議な心が備わったとしか言いようがない。 今、自然界は実に美しい。紅葉の秋、今年はどことなく異常な気候のせいか、いつもの紅葉と比べると大分劣る。これは神さまのせいではなく、間違いなく人間の責任と思う。

自然界、一つ一つの生き物、植物、動物、魚、鳥などを注意を凝らして見て行くと、非常に不思議である。不思議なる神のみ手によるものだ。中央オーストラリアにエアーズ・ロックと言う一枚岩の山が荒野の中にドカンと置かれている。置かれた、としか言いようがないのだ。雨は殆ど降らない、とさえ言える山のてっぺんのくぼみに命が存在しているそうだ。たま雨が降って出来た水溜りに、「シールド・シュリンプ」と言う魚のような小さい生き物が存在する。誰かが置いた、のではない。昔から存在している。数週間の水溜り生活で彼らは子孫を生み増やす営みをする。そして水は完全に渇ききる。もし、湿り気と言うなら、夜露だけであろうか。それでも命はそこに存在する。やがて、ずっと後に雨が降る。すると、そこで彼らはよみがえったかのように命を燃やすのだそうだ。これも創造主なる神のわざ。実に不思議な主の御旨。

人の心も実に複雑だ。悲しみがなくても、喜べない日がある。喜びのあるはずの時に、心が曇る日もある。愛せる筈なのに、愛せないときがある。孤独なのに、楽しいときもある。 だが、何が無くても、悲しみの中でも、イエスを思うと嬉しくなる。試練の中で、生き甲斐があるのは、イエスを思う時だけだ。

神の神たる所以は何故か。 神に出来て人間に出来ない決定的なものは? それは、いのちの創造だと思う。生きたいのちの創造は神だけしか出来ない。 人間は応用が出来ても、すぐれたロボットを造れても、生きたいのちは作れない。 それは人間そのものが神の被造物だからである。被造物は、どこまで行っても創造主にはなれない。

そして、自分が被造物であることを知ったときこそ、人間は本当の生きる意味と甲斐を知る。 それ以外に人間が本当の生き甲斐を知ることは出来ない。 神の不思議に思いをはせる時、その人が神の近くにおり、神が側にいるときであろうか。

この時代、多くの人が自らの命を絶っている。老いも若きも幼い命も何故簡単に命を絶ってしまうのだろう。一つの絶命の故に数え切れない多くの人が生涯悲しみ、創造主が悲しむ。それくらい、一つの命は重い。

それぞれに事情がある筈だ。しかし、生きていれば必ず素晴らしい人生が開かれる。 それを待つ勇気を持って欲しい。数年かかろうと、「生きていて良かった」と言える日は誰の上にも、必ずやってくるから。

広大な砂漠の岩山の上でさえ、命は燃えている。小さくて皆が見過ごすような生き物だけど、生命を燃焼させている。今、与えられた時を精一杯生きている。 それは創造主である神が彼らの上におられるからかも知れない。

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