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■ 選びは主、選ぶは私 / 民数記13:1~33 (2006-11-12)

主は私を選んでくださった。あなたを選んでくださった。 みことばにある。 ヨハネの福音書15:16「 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」

主が、私やあなたを選んでくださった。だが、そこから生きる場面で様々な選択をするのは主ではなく、私であり、あなたである。時間の世界で生きる私達こそ、選択権があるということだ。信仰を持つことも、持たないことも。教会に行くことも、行かないことも。奉仕することも、しないことも。捧げものをすることも、しないことも。人を赦すことも、赦さないことも。誰かを慰め励ますことをすることも、しないことも。あなたの選択に任されている。

昔、イスラエルは奴隷の身分であった。彼らの苦しみの叫び声は天に届いた。そしてモーセが立てられ、彼らはエジプトからの脱出に成功した。紅海は左右に分かれ、海底には道が出来、海水は壁となった。彼らは悠々と対岸に渡った。そして約束の地に足を踏み入れた。その場所こそ、カデシュ・バルネア。永遠に覚えられた地名。何故なら、イスラエルが神を信頼しきれず、退散した場所だったからだ。

カデシュ・バルネアから約束の地は目の前であった。数日で辿り付けることができた。 しかし、先に送った斥候は、そこに先住民族を見た。どれも体が大きく、強そうに見えた。斥候12人の内、10人は先住民を恐れ、民の心を挫いた。そして、彼らは大きく迂回し、40年の荒野へ、流浪の旅を選んだ。カデシュ・バルネアはその為に有名な地となった。

私たちの人生にもカデシュ・バルネアはある。突然やってくる選択の岐路。どこにでも置かれているカデシュ・バルネアなのだ。選ぶのは私、そしてあなた、である。誰かではない。

教会は計画が好きである。無計画が好きな人は、教会に行きだしてから、かなりこの部分で鍛えられる。教会は年度計画、5年計画、10年計画を立てる。中には30年プランもある。それはそれでいいと思う。但し、そういうプランを立て、祈って主の助けを求めつつ実行することだけに、信仰の醍醐味があるだろうか?主の栄光だけを見る日があるのだろうか、と思う。何故なら、選ぶことの葛藤や悩み、腹から祈り求める状況は、計画先行においてはあまり無い、とさえ思うからだ。突然、目の前に置かれた状況で、どちらを選んでいいか分からず、祈ることしかできない日がある。悩んで、祈れない時さえある。だが、そこでこそ人は主のみを仰がざるを得ない。

私達の教会堂は狭い。土地もない。絶えず、この問題が大きく立ちはだかった。8年前、突然隣家が売りに出された。その情報を耳にし、目にして私は悩んだ。既に多額の負債がある。4500万をゆうに越す価格に恐れが先行したが、同時に素晴らしく価値ある買い物でもあった。その物件は紆余曲折の末、与えられた。

1年前、今度は隣の畑地が区画され、売りに出された。20年間、願っていた場所であった。しかし、資金はゼロ。あるのは多額の借金だけ。それでも教会は、買う方向を選んだ。そしてめでたく入手できた。まさに主は我らを見捨てたまわず、であった。喜び勇んで会堂増築プランに取り組む。問題が噴出した。耐震構造要求のレベルが上がっていた。昨年の事件以来、行政も業者も昔とは全く違う意識になっている。プランを各種検討するも、納得できない。ああ、主は何を語らんとされるのだろう・・・

そうだ、祈ろう。「こうなって欲しい」とか「ああなって欲しい」ではなく、主は何をお示しになるのだろう。ここに徹して、教会は立ち止まって祈った。

9月末、購入地の奥にもう一画が売れ残っていた。週末、多くの見学者や希望者が見にくるが、売れない。私は既に手にした土地を含め、二区画を並べて想像した。すると、ここだけでも素晴らしい礼拝堂が出来るイメージができた。欲しい、是非とも。だが高額である。そしてこんな無謀な案を教会員には言えない。数ヶ月前に大きな買い物をしたばかり。

まさにカデシュ・バルネアであった。祈り会が終わって、皆が帰ったあと、一人その30坪に足を踏み入れ、天を仰いで祈った。創世記、アブラハムに語られた、主からのみことばが降りた。心に何か確信が生まれた。「ここを得たい。何とかして与えられたい。」

役員会、教会へこの希望を分かち合い、メーリング・リストで教会を励ました。励ます側に自信などない。あるのは願いだけだ。主が必ず下さるから、それを得よう!と。

そして、主は教会と外部の数人にも語ってくださり、合計47名の人が主に応答してくれた。買える、と確信したとき、私は思わず泣いた。別に自分が貰ったわけではないが、主の宮のことを思って、嬉しくて泣けた。 いつか、この土地に主の家、祈りの家、ができる。オープンで明るく、聖書のみことばが大胆に語られ、主に応答する礼拝だ。その日は必ず来る。主が下さるから。 カデシュ・バルネアで、我々は勝った。恐れと不信と弱気に勝利した。主は素晴らしい。チャレンジを与えられるが、勝つ手も教えてくださる神。あなたの人生にもその主を紹介したい。

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