■ 教会は絶えず発展途上! / ローマ人への手紙1:21~32 (2006-11-19)
完成した教会、などない。どれほど組織的に活動し、水も漏らさぬ気配りと行動が訓練されていたにしろ、完璧な教会などない。完璧になれないし、ならない。なれないことが実に幸いだと思う。所詮人間が存在し、関わっているのだから、完璧などない。仮に、完璧、と意識した瞬間、最悪の教会に落ちている。だから面白い。つまり、すべての教会は発展途上ということである。
愛がない、愛がある、というテーマで教会を考えてみた。 愛、このテーマほど掴みがたいものはない。ある場合、ほんの一言が誰かを立ち直らせたり、力づけることもある。当事者にとっては、大いなる愛をもらったのである。また別のケースでは、身の回りに及ぶ世話を受けた人でさえも、さして愛と考えない人もいる。だから、何が愛で、どこまですることが愛なのか、それぞれの現場で考えるしかない。昔、マザーテレサが言っておられた。「日本人は寂しい民族。人々の無関心、これがもっとも淋しい」と。そうか、無関心をよそおう、無関心な態度をされた、が愛無き姿なら、その逆が、愛と思っていいのではないか。「あなたに関心を持っていますよ」と言う思いが、言葉なり行動なりで伝えられたら、それはそれで立派な愛の示しである。
「良きサマリヤ人」のお話をイエスがされている。あそこでイエスが私達に教えたかったことは、無関心こそが人間関係においての冷たさであり、罪であるということだ。今の社会、大人は勿論、子供社会でも無関心がなくなったら、どんなに温かい環境になるだろう。そういえば、戦後に日本人から欠落した点は「他者への関心」かも知れない。
パウロは神を神としない人々のことに言及している。その人々がどういう行動と生活をしているかも。しかし、ローマ人の手紙を細かく考えていくと、クリスチャンにさえ当てはまることが随分とある。神を神としている我々に向かって語られているようにさえ、思える。むさぼりや憎しみ、ねたみ、争い、偽り、苦々しい思い、陰口、横柄、高慢、親に反抗・・・もしかしたら、パウロはクリスチャンに対して語っているのではないだろうかとさえ、思ってしまう。
だから教会は完全ではない。絶えず、発展途上でしかない。でも、完成を目指している。ならば良い、と思う。足りない点が多い。欠けだらけ・・それでも主は待っておられる。 足りない点、欠けが多い教会ほど、十字架にすがらざるを得ない。ならば良い。幾ら、大きくて立派な会堂を持っていようと、自分達の弱さを知らない教会では、悲しすぎる。傍目には立派でも、エクレシアとして幼すぎては最悪だ。関心を示そう。大抵の人、関心を示された悪い気持ちを持とう筈がない。小さい家庭的な教会、それも良い。誰でも家族に迎えられる教会ならば、更に良い。そういえば、教会自体が一番見落としていることがある。仲良しが教会、と勘違いしているところ。特伝!リバイバル!と叫んでチラシをまきつつ、いざ外の人が来ると、何故か冷たい処遇をする。他者が入れない仲良しは、実に困ったものだ。
愛とは関心を言葉と行動で示すことだと思う。教会だけではない。会社も学校も家庭も、である。ところで、主がどんなにか、あなたに向かって関心を持たれ、示されたか。あなたは知っておられるだろうか?聖書はこのことのために記された、と言っても過言ではない。十字架は神のあなたへの関心、そのものだと思う。