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■ 希望は闇の中に輝く / マルコの福音書5:21~43 (2006-12-10)

アドベントキャンドル、二本目に火が入った。 ローソクの小さい火、昼間では日の明るさに吸収されてしまい、あまり訴えるものはない。しかし、夜になると広い会堂のスペースに負けず、赤々と燃え、暗闇に打ち勝つ。 聖書が言うとおりだ。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」

希望は闇の中に置かれている、と思う。 人は絶望の中で出会った希望を生涯忘れない。忘れることが出来ないのである。イスラエル民族、絶えず大国の餌食にされ、国土は蹂躙された。それでも、神から遣わされた預言者は語り続けた。「あなたがたが捕囚となって連れて行かれたかの地において、あなた方は神の救いを見る。」イザヤ書は特にそれを語る。ミカ書、イザヤ書とほぼ同年代の預言者であった。ミカは語る「小さな村、ベツレヘムから救い主が出る。それは永遠の昔から定められていた。」

今から2千年前、イエスはベツレヘムと言う村でお生まれになった。ミカが預言してから700年以上経っていた。神の約束は気が遠くなるほど、遠い未来を語る。しかし、ある場合、今という時点で瞬間的にわざを行われる。人はそれを知ることなど出来ない。所詮、人は神の前に何もなし得ないし、神を計りようもない。

イスラエルは救い主を待っていた。しかし、預言者の言葉は不思議だ。詩篇にはこんな言葉もある。詩篇112編「主は直ぐな人たちのために、光を暗闇の中に隠す・・・」 光とは救いであり、希望であり、望みである。暗闇とは困難な時代のことであり、また人生においては試練のときを指す。神は希望を試練の中に隠しておられる、と言うのだ。 困難など誰も歓迎はしない。しかし、誠の光、希望は艱難の中にこそ、神が備えておられる、とある。確かにそうだと思う。順風万藩は有難い。しかし、そこでは神の下さる希望には巡り合えそうもない。人間だけに頼っている者は、生涯神に出会おうともしない。そういうところで出会う希望は誰かに裏切られる結果に終わることも多い。やはり、人は神の前に出ることがベストだ。

キャンドル、蝋(WAX、と英語は言う)のかたまりだ。だが、蝋だけでは何の役にも立たない。蝋は熱に対し非常に弱い。たかが40度を越した位で簡単に変形してしまう。私達人間も蝋のようだ。 僅かのことで人格と人生が変形してしまう。そして、ローソクに芯は欠かせない。芯は神のような存在だ。どんな人間でも、創造主である神が臨在されるなら、彼の人生は救われる。まさに芯とは天の父、御子イエス、聖霊なる神であり、人間にとって、中心である。すると、この芯があれば人生は万全であろうか。万全ではない。火が灯らぬローソクに意味はない。火が灯ってこそ、キャンドルは灯りと温かさを人にほどこす。火とは、神への応答であると思う。火のないキャンドルに意味がないのと同じで、頭だけの信仰には輝きも熱もない。

神への応答とは何か?信仰、信頼、従順、そして実行である。神を頭で信じているクリスチャンなら山といる。神学専門クリスチャンも同様である。彼らは火がつかないキャンドルと同じ。 折角与えられた蝋と芯、ならばそこに応答があるべきだ。そうすれば、燃えることが出来る。燃えない信仰生活など意味がないし、淋しすぎる。そこには証しもない。感動も実行もない。礼拝における感謝も自分に対するチャレンジもない。まさに無いものだらけである。あるものは、やがて変形してゆくWAXのような人生か。

キリストはこの世の光として下られた。暗闇の世に、輝く灯火である。絶望がやってきても、彼と生きるなら、必ず救われる。どんな人間でもキリストによって救われる。

イザヤ書42章 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。 わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。 彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。 彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。

彼は、くすぶる灯心のような私の人生の灯りであろうとも、決して消すことはされない・・・・・

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