■ 過ぎし日を見て未来を握る / 申命記1:1と19節~33節 (2006-12-31)

文字どおり2006年の最後12月31日に立っている。 12という月の中、様々な恵みがあった。「祝福」とは、私達にとって都合の良いことを言う場合と共に、「イエスが私と共にいてくださった」ことを指す場合がある。 そして「恵み」とは 苦しみや悲しみが喜びと同居しており、それらを神が用いて私を訓練してくださった結果を言うことだと思う。試練はその時点では苦しいし、誰にとっても有難くはないが、その後になって見れば、決してマイナス面だけで片付けられないのである。神さまの許し無くしては、一羽のすずめも地に落ちない、と聖書は語る。悲しいことでも、辛いことでも神の許しの範囲であるし、そういうことが起きること自体、意味があるのだと思う。

一年の歩みを追ってみると、祝福の合間に辛いことが味付けをするかの様に、挟まって存在している。しかし、結果的に何と多くの感謝なことがあっただろうと言わざるを得ない。神のなさることは実に時にかなって素晴らしいと思う。

ボン・ヘッファーの言葉が一年の終わりに良く似合う。 「良き力に不思議に守られて、何が起ころうと我らは心安らかに待ち望む。  神は、朝も夕も、我らの隣にいまし、そしてどのように新しい日も、必ず共にいまし給う。」

そしてアメリカのアーミッシュの日めくりカレンダーにこんな言葉があった。 「I know not what the future holds. But I know WHO holds the future.」 (私は未来をつかむことは出来ない。しかし、私は未来を司られるお方を知っている。) いかがであろうか。人間はそれでしかないし、こうでありたい。未来のすべてを司っておられる方を知ることこそ、人間の幸せであると思う。

12月31日にいる、と言うことは、同時に新しい年を明日に見渡す場所にいる、ということだ。 明日は(来年)、どんなことが起こるか分からない。耐え難いことが待っているのかも分からない。 だが、申命記の言葉が私を支える。「恐れてはならない。おののいてはならない。」 この言葉は主のご命令である。 そして申命記1:31の言葉は温かく力強い。「 また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。」 人生は実に荒野だと思う。だが、そこでこそ、主なる神を信じるに相応しい場所でもある。

聖書に従って主である神と生きる人生なら、本来は恐れもおののきも禁物である。 何故か? 第一に、そこに神の約束がある。 第二、そこに主のみ旨がある。 第三、それは主がご一緒だからである。 これだけの意味があって、尚恐れるとしたら、それは不信仰でしかないと言わざるを得ない。

神を信じ生きて、神の栄光を目の当たりにしたい。そして、神の栄光に出くわすには、神を信じて生きることのみである。

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