■ 不安と不信の谷を渡り / ローマ人への手紙4:13~24 (2007-02-25)
クリスチャンの中には、本当に主にまかせきっている人がいる。偉いなあ・・と感心してしまう私である。「いつになったら、あんなふうになれるんかなあ」とも思うが、別になれなくてもいいか、と冷め切っている部分もある。
信仰生活にあっていつも思うことがある。それは、心の中に絶えず存在し続ける、不信と不安である。これさえなければ、本当に平安なのに、とさえ思う。何故、主はこのことを放っておかれるのか。 私は思った。不安と不信を乗り越えつつ、人は平安を勝ち取っていくのだろうと。不安も不信も心から完全に払拭できないし、そのための暗闇の部分もある。しかし、血と肉の体にあって生きる人間には、これらは当然のことなのではないか。理想は理想として見やりつつも、自分の現実に向かい合うことも大事だと思う。
「信じられない」「本当に、神は私を見捨てられないのか」このような、疑心暗鬼な思いは、実に不信仰である。しかし、不信仰と言う谷を飛び越えて、主をたたえ、すがっていくことは、初めから疑うことさえしなかった場合よりも、逆に尊いのではないだろうか。 そこにこそ、信仰の輝きがあり、神の助けと力が臨在し、神の栄光があると、私は思っている。不信仰をカバーしている印象はぬぐえないが、時間の世界で変動する人間の心、見えない神を信じ続ける戦いの日々が、仮にタフであっても、生涯持ちこたえられそうでいい。
不安、不信を意識できるということは、自分に真向かっているからだと思う。人は神に真向かうとき、同時に自分にも真向かわざるを得ないのである。神にだけ向かって、自分に向かわない人もたまにいるが、見ていて気の毒にさえなる。その人は一生懸命、自分だけの神を建立している。それは自分の神観と言うが自分の世界だけであって、神と私の世界になっていないのだ。そういう人は、案外いつも平安にしている。自分の内に出会わないからである。
それとは逆に、神に向かわず、自分にだけ向かっていると、風に揺れる葦の如く、いつも揺れ動いているだけである。アップダウンが激しく、ジェット・コースターのような感情と、自分の中に蠢く怪物の狭間に悩まされる。決して平安もなく、勝利もなく、いつも誰かに相談せずにはいられない。人の意見に翻弄されるかと思うと、動けない自分に落胆する。成長も変化もない。実に主と私、私と主という一体性の世界だけが、自分の足りないところを映してくれ、同時に神の栄光を仰ぎ見るのである。
フランスに世界に名を馳せた作家がいた。彼は元来、才能があり、自由奔放な快楽の生活を楽しんだ人であった。その彼が180度の人生転換となった事件が起こった。ある日、彼の愛する幼い娘、「レオポティンヌ」がセーヌ川で溺死した。彼は娘の遺体に取りすがって泣き、「この子の死は、私への神のさばきの結果だ」と言った。 そして、彼は敬虔な生活に生きる者となり、やがて世に発表したものが、「レ・ミゼラブル」と言う不朽の名作を残したが、彼こそがヴィクトル・ユーゴー、その人であった。
不安、不信を自分へのマイナス・イメージだけで捉えてはならない。そういうものを感じる、知る、ということ自体、あなたが自分に向かい、神に向かっているからだ。問題は不安と不信の谷を見ることではなく、その谷を渡り、向こう側にある信仰の高嶺を見上げることである。鷲の翼のような信仰はどこから来るのか。ひたすら神の憐れみから来る。