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■ 信仰は失うもの / ルカの福音書22:20~34 (2007-03-18)

生きるもの必ず死がある。その別れは辛く、悲しい。
 聖書は死が忌むべきものとあるが、私の中では死は尊いとさえ思う。それは喜びなどでは決してないが、尊い人生、生きる尊さを瞬時に失わせる死の力は、凄まじい。命を閉じさせてしまう死は、生きとし生ける者にとって、不可解であり、絶対であり、壮絶である。しかし、死をマイナスとしてのみ考えて、生に終止符を打たせるだけで終わらせたくない、のが私の心情でもある。死は決して歓迎できないが、生きるところの背に張り付いている事実として、決して視界から消えない。だからこそ、キリストは死を征服するところにこそ、誠の生があることを教えて下さったのだと思う。誰でも、キリストにあるなら、死は単なる通過の門でしかない。その向こうにイエスが用意された素晴らしいパラダイスが待っている。死の向こうに、である。
 

 命を落とす、と言う。だが、命自体、それを目にすることは出来ない。
 信仰は失う。落とす、とは表現しないが、失う。信仰自体を見ることできないが、失ってみて初めて、「あった」ものだったことを知る。
 信仰は失う対象でもある。あると思っていると、ある日突然、無いことに気づかされ、思わず気が動転するというか、情け無い思いさえする。こんなに頼りないものだったのか・・・
 だが、心に宿ったものだけであるなら、そんな失い方も当然である。
だが、キリストと生きる世界にあるなら、そんな失い方はしないだろう。しかし、そうでもないのだから、実に怖い。
 

 信仰を一度得たら絶対失わない・・・聖書のどこにも書いてない。
 礼拝に行ってさえすれば、天国に間違いなく入れる・・・聖書はそう語らない。
そして、私は決して主から離れない!と言った人間ほど、主から離れた、と聖書にある。
つまり、信仰は失うものである。神の愛から切り離されることは無くても、信仰を失うことは当然あるし、そんな日がやってくる。私は何人も見てきた。そして私も???そうなって欲しくない。
 

 今の日本、キリスト者が冷めているのは、何故だろう。ひょっとしたら、危機感がないからだろうか?と考えた。
 聖書にタラントを預かった、しもべの話がある。5タラント、2タラント、1タラントをそれぞれが主人から任された。主人が旅から帰ったとき、5タラントを10タラントに、2タラントを4タラントに増やしたしもべは褒められ、そのお金を貰った。1タラントのしもべはそれを地に埋めておいたので、増えなかった。それどころか、主人は怒って、彼からそれを取り上げて、外に放り出した。
 考えてみると、1タラントは決して小金ではない。今のお金で考えると、6千万にもなる。
 

 私達が預かった信仰は、6千万の価値がある。だが、誰もそうは思っていない。まあ、金には替えられない・・位が関の山か。
だが、それを用いて、更に増やしたい、人間ならば当然である。自分のお金と考えた人は賢明に投資して増やしたのだ。だが、主人のお金と第三者的に考えた人は、失うことを恐れ、地に隠しておいた。結果、利息さえ付かなかった。信仰無し!と主人は彼から、すべてを取り上げた。そして、彼は失った。
 

 信仰は使わないと失うのである。働かせないと失うのである。生かさないと失うのである。
 分かち合うと増える。語れば増える。用いれば増える。使えば増える。生かすと増える。
この世の金と逆である。神が直接下さるものは、実に不思議だ。
 

いつまでも有ると思うな、親と金、と世の人が言った。もう一つ加えよう。親と金と信仰だ。あると思っていると、無かったことに気がつく。その時はもう遅い。そうならない様、危機感を持って、イエスさまと生きよう。失うことを考えずに、使うことを考えよう。そうすれば、信仰は自然と増え続けるのだから。天に宝を積む、とはそういうことであろう。
 

 

 

 

 

 

 

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