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■ 傍観者 / ルカの福音書23章20~38 (2007-04-01)

私達はやはりイエスの「傍観者」だと思う。
この受難週のとき、日々主の足跡を追いつつ、考えてみた。
 日曜、エルサレムに入られるイエスは、子のロバに乗っておられた。平和の王は白馬ではなかった。群集は手に手に棕櫚の葉を持って、道に敷いたりして王を。
その数日後、群集は「十字架だ、十字架につけろ」と叫んだ。そしてイエスは十字架に掛けられた。金曜の朝から午後三時、約6時間という長い間、イエスは釘を打ち込まれ、痛みに痛んだ。失血死ではない。極度の痛みのためであった。その中から彼は神に向かって叫んだ。「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているか分からないのだから」
その時、群集はあざ笑い、暴言を吐き、兵士はイエスの着物を分け合い、祭司長はわらっていた。傍観者に過ぎなかった。私達は笑ってもいない。嘲笑もしていない。しかし、十字架のイエスの隣人ではない。
 

ある本に「時」は三種類あると書いてあった。
 第一は天文学世界からの「時間」、いわゆる人間が用いる年月、時間の物差しである。
 二つ目は自然界の「とき」である。魚、鳥、動物、そして自然、彼らだけが知っている「とき」である。誠に不思議に思えるものである。
 三つ目、「神のとき」である。これは一般人は知らない。クリスチャンだけが知っている?
この「とき」は永遠性がある。二千年も昨日か今日のように思える。これは時間の裏側に横たわっていると、私は思う。イエスを信じたら、それを実感するが、イエスを知らなければ、生涯知ることはない。神の摂理と神の時は、密接に関係しつつ、やってくる。進む「とき」ではない。やってくるのだ。
 

イエスの十字架、ほんの幾人かの婦人だけが十字架の痛みを目で捉えていた。福音書によると、ヨハネもそこにいた。彼らは十字架の当事者になっていた。胸張り裂けんばかりに痛み、悲しみ、涙したことであろう。
 今、私達が置かれた平和な環境、自由に溢れる環境では、傍観者以上にはなれないのだろうか。しかし、十字架の主に従って行くには、自ずと痛みがやってくる。家族、友人関係、親子関係、そして地域の関係。すべて、彼らとうまく波長を合わせ、問題なくやっていけるとすれば、当然であるが犠牲にするのはイエスである。イエスは文句も仰らない。しかし、家族も親も友達も社会も文句を言う。それが嫌だから、イエスだけに苦しんでいただいている。やはり、傍観者だ。
 

 「彼らは自分でしていることが分からないのだから」と執り成してくださったイエス。
その執り成しは、何もローマの兵隊や祭司だけではない。二千年後に生きている私もだ。
そう思えなかったら、あなたは既に自分で自分を聖人とか善人にしている。十字架など既に必要としなくなっている。イエスの十字架は罪人のためであって、あなたのものではなくなっているのだ。イザヤ書53章にこうある。
 『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。』
 

 

 

 

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