■ 真剣勝負 / ローマ人への手紙5:12~19 (2007-04-15)
私は日本刀が好きである。困った牧師、と自分でも思った。 10年ほど前、やたらと欲しくなった(実は今でもそう思っている)。 それも多少は時代がかった古い名刀、しかし、とても高価すぎてあきらめた。もう一つ、盗まれたりして悪用されるのも怖いし、やめたのである。
聖書のヘブル書4:12にこうある。 「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」 こっちは、さすがに切れ味が鋭そうだ。
真剣勝負、それは道場などの練習場所とは天地ほどの差がある。幾ら竹刀や木刀で強くとも、真剣を握っての勝負は全く異なる、と思う。一寸一分の距離差で、切るか、切られるか、死ぬか、殺すかである。仮に、そういう場面に置かれなくとも、何か感じるものがある。 真剣を握っただけでも、身震いするか、鳥肌が立つ思いがするだろう。言葉上の「真剣に」が、日常語になった経緯にも、そういう思いが迫ったからだと思う。
すべての人は罪を犯した。天皇も国王も大統領も首相も、そして一般の人間すべても、である。罪を犯した、と言うより、罪の性質を受け継いで生まれて来ている。
乳児に罪の性質、つまり自分本位と自分中心(神よりもである)の感情や意識をうかがい知ることは容易である。お母さんの乳を飲みながら、既にお母さんを自分の意のままにしようとしている。しようとしているのではなく、無意識にそうなっているのだ。 子供は社会性を持って成長させるには、親も社会も奮闘努力が必要だ。そうでもしなければ、まともな人間になってくれない。それだけの世話と教えを受けても、反社会的な人間は世の中に山といる。
私たちは普通のレベル?と思って生きている。おそらく多くの人たちも同様と思う。 しかし、こと神さまの前に置かれたら、どうなってしまうのか。自分の言い訳で埋め尽くされるほど、真剣に神さまの前に生きていない。理想を語り、神の正義を語り、罪と人間の弱さを語りつつ、真剣を握っていない。言葉だけなら誰でも言える。 だからパウロはこう言った。 第一コリント4:20 「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」
力は普段の生き様を映し出す。普段、どこにどう生きているかが現れる。実力は言葉だけではなく、その人の信念に潜んでいる。 祈りの言葉の先頭にいつもこういう。 「天の父よ」「主イエスの父よ」と。間違ってはいない。しかし、何かが足りない。そう、天の父は私の父である。霊の父、とヘブル書は幾度も言う。ならば、私は神さまの子供である。 霊の父は、ご自身の長子を十字架に掛けてまでして、私を受け入れてくださった。それほどの熱い思いを持っている父に出会ったたことがあるだろうか。どこを探したって見つからない。 しかし、あなたが探さずとも、霊の父の方からあなたを探してくださったではないか。 霊の父は99匹の羊をほうっておいても、私と言う迷い子の羊を探してくださったではないか。
こういう現場に私達が立っていないのだ。なぜか?真剣勝負をしていないからだ。 愛する兄弟姉妹たち、明日の朝、真剣を握って、あなたの父に真向かってはいかがだろう。きっと、霊の父の愛と慈しみとあなたに賭ける真剣が伝わってくる、と信じる。