Please reload

最新記事

■ 泥沼に咲く蓮の花 / ローマ人への手紙5:20~6:4 (2007-04-22)

蓮(ハス)は泥沼で生きる。そして夏になると綺麗な花を咲かせる。花に見とれて目を水面下に移すと、足も埋まりそうな泥沼である。根は腐りもせず、水面に浮かぶ葉と花に栄養を補給している。不思議な光景であると思った。

 

あの汚い泥沼から、美しい大きな花が天を仰いで満開である。
ふと、思った。まるでキリスト者の様だと・・・
悩み葛藤し、考え、生き、行動する世は、まるで泥沼だ。栄養など無いような世界であるが、しかし、神さまは、その創造力により、こんな自分にさえ花開く人生を下さった。
 主の憐れみと慈しみは、泥の中にさえ及ぶ。神も仏もあるもんか、と言う人もあり、本当に神さまおられるのですか?と嘆くクリスチャンもいるだろう。だが、神はおられるのだ。
 

 聖書でローマ人への手紙は語る。「罪あるところに恵みが満ち溢れる」と。
 確かにそうだ。罪が分かると神さまからの恵みが分かる。恵みが分かると、罪が分かる。不思議な関係である。表裏一体か?そうではないが、神の恵みは尽きない。十字架が迫る世界、それこそ罪を知った瞬間である。
 

イエス様を受け入れる前には罪など知らぬ存ぜぬの人生であった。だが、クリスチャンになって、これほど厄介なものが身にとり付いていたのか、と思わず唸った。唸ったどころか、悩みの種にさえなった。しかし!そこで巡り合ったのは、キリストの十字架の意味であった。自分と十字架がつながったとき、本当に神は愛なる方と知った。初めて砕かれた。
 

すべての人間が偶像を持っているし、キリスト者も持っている。それは「自我像」と言う偶像である。生涯、向かい合わねばならない偶像であり、己が醜さを知らされるものでもあり、しかし、これによって神の憐れみに出会うのでもあるから何とも不思議である。
 

 私達クリスチャンは律法の下にはいない。恵みの下に置かれた。
だが、今も罪を犯す。人間の厄介なところは、目に見える罪もあれば、見えない罪もあるところだ。見えるものは裁きやすいが、心の中のものは非難も受けず、自分だけで温存も出来る。動物にはないが、霊性をもつ人間にある世界だ。心の中の罪は一人楽しむことも出来、同時に信仰の火さえ消される力を持つ。健康な信仰者であっても、これには弱いものである。だが、早めに手を打てば大丈夫。神は人間の弱いところに働いてくださるからだ。
 

 心の中は自分以外、誰も知らない?いいや、主イエスは知っておられる。神が知っておられる。聖霊が知っておられる。だからこそ、主が助けてくれるのである。覚えよう、罪あるところに恵みが満ち溢れることを。
 泥沼のハスでさえ、太陽の光を浴びて、今、置かれた環境で、精一杯創造主をたたえている。足を置いている所が、たとえ沼であっても、そこでしか咲かせない花もあるのだ。信仰の花なんて、案外そういう自分と環境に因るのかも知れない。但し、神の憐れみと愛が、泥沼にさえ及んでいること、イエスがそこまで下ってくださったことを覚えよう。
 

 

 

 

 

 

 

Please reload

ソーシャルメディア
タグから検索
Please reload

アーカイブ
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square

© 2016 by Choufu Minami Crist Church . Proudly created with Wix.com

  • Facebook Social Icon