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■ 不自由な私 / ローマ人への手紙6:19~23 (2007-05-06)

あなたは、本当に自由ですか?と、聞かれたら、私は不自由です、と答えるしかない。
 自由とは何でも出来て、したいことができる。言いたいことが言えるのではない。聖書は誠の自由がどういうものかを教えている。
 聖書は言う。「何をしても良いのだが、すべてが益ではないし、徳にもならない。つまり、自分は何でもできるのだが、しなくてもよいものをせずにいられるし、なにものにも支配されない。」これが真の自由である。
 

しかし、通常私達がしていることは、しなくてはいられない事をしてしまう。しなくてもよいことをしてしまったり、言わなくてもよいことを言ってしまったりしている。
 更にはしてはならない事をしてしまうことも、自由のせいと錯覚している。実に神の規範を乗り越えてしまった私は、とんでもない場所に生きているものだ。
 

 何故不自由か?
 私の自我が正しいと思うことを行わせないのである。それは罪という性質である。自分の深い部分で働くこの劣悪なる性質と私は同棲同居しているのだ。「出ていってくれ」と言っても絶対に出て行かない奴なのだ。嘆かわしい存在であるが、出て行かれてしまうと、逆に困るのも自分だ、などと、私が勘違いしている。実にローマ7章のパウロの嘆きが実感である。
 

ある本にアメリカの荒野で、ガラガラ蛇がどうやってリスを捕まえ食べるのかが書いてあった。木の上にいるリスが尻尾を振って出す不気味な音を聞く。そして音の方向を見た瞬間、蛇と視線が会う。するとその時点でリスは硬直してしまい、蛇の視線から逃れられない。蛇はリスのいる木の下へ移動して、口を広げて待つ。リスはやがてバランスを失い、蛇の口に落ちてくる。恐ろしいことであるが、私の中の罪と似ている。否が応もなく、バランスを失ってゆく、己が姿を小さくて哀れなリスに見た。
 

しかし、我々は不自由に甘んじて生きる必要はない。何故なら、イエスが十字架で死んでくださったことは、自由を得させるためであったからだ。「我が罪は十字架の上で、彼が背負って死んでくださった」のである。であるから、今もなお、ゾンビのような自我に身を任せねばならない理由などない。そして、このために素晴らしい名が与えられている。
その名は「イエス!イエス!イエス!」。
この名を口にしない、呼ばない、語らない、頼まない、ところに、人間の卑屈を見る。
 折角、この名において救われ、赦されているのに、いざという時に頼むは我が身であっては、何のために彼を受け入れたのか、となる。
 

リビング・バイブル訳でローマ6:20と21。
 「あなた方は罪の奴隷であったときには、良いことについては無関心でした。その結果はどうだったでしょうか。あきらかに、かんばしくないものでした。だからこそ、かつて自分がしていた事を考えるだけでも、恥ずかしくなるのです。その行き着くところは、永遠の滅びです。」
 

 昔、イエス様を知らなかった時代、この世に咲く妖しい花に憧れた。それなりに楽しかった。しかし、その花は幻影そのものであった。未来への希望と言う実もつけず、今を楽しませるだけのものであった。楽しいと感じたものさえ、思い出せば恥ずかしいものだった。
そして、その道は永遠に神から断絶された道でしかなかった。自由の道と書かれ、立てられた看板の裏に、死と言う消えない文字があったことまでは気がつかなかったのだ。
 

 

 

 

 

 

 

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