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■ わが子よ、神を失うな / 箴言3:1~12 (2007-06-10)

教会には年に一度、子供の日がある。乳児、幼児を含む子供達に、未来への祝福を祈る日である。 幼い魂、そこに親の願い、また希望と夢もある。だが、子供が親の思いどおりになる時間など、本当に僅かな時間でしかない。子供には子供の思いがあり、選択権もあるが、間違った人生の選択をしないよう、親は絶えず気をもまねばならない。

旧約聖書の箴言、非常に短い言葉でもって真理を語る格言の集まりである。 ここに神を信じて生きる親の思いが、子供に向かって切々と語られる。 たった一度の子供の人生が、無駄なものに、又は悔やまれた道にならぬようにと語っているのだ。

この世には、子供に適した完全な環境など皆無であろう。このことに関しては、エデンの園を見ても理解できる。あそこでは何を食べても良かったが、食べてはいけない実をつける木が一本だけあった。今は違う。食べてはいけない木の実がそこら中にある。食べるべき実のなる木は、一本だけである。その木は、イエス・キリストという木である。だが、日本人は特に、この実が嫌いらしい。いわゆる食べず嫌いなのであろう。

子供には、せめて健康がついて回る人生を・・・ いや、出来るなら、その上に必要なだけのお金を・・・ もし出来るなら、社会的な地位を・・・ 更に願わくは立派な人、恵まれた家族、苦労の無い人生・・・だが、無理である。 そう見える人達もいるかも知れないが、人生とは必ずどこかが欠けているものだからである。 だから、親として先ず願うべきは・・・創造主を畏れる人間になって欲しい、と祈るべきである。畏れるだけでなく、信じて従う者にと願うべきであろう。 仮にお金が、健康が、地位が得られない人生を与えられたとしても、主を愛し、主を喜べる者にと思うべきである。 その理由として、神の国とその義を求めるなら、必要なものは、すべて与えられる、とマタイ6:33が約束しているからだ。

格言ではないが、このようなポイントを挙げてみた。

1、親は子供に対し、後姿を見せるべきである。・・・後姿はその人の人生を語るものだ。何を価値とし、何を目指し、何を思って生きているのかを後姿が語る。言葉が必要ない場面だが、正直に自分を語ってもいる。

2、神を教えよ。・・・宗教ではない。イエスと生きることを教えよ、である。人にとって、最高の人生になるからだ。

3、皆と同じでなくても良い。・・・・他者と自分を見比べて生きるような社会である。勿論、身勝手は困るが、個性の尊重に日本社会は目を向けるべきである。

4、神を失うな。・・・・神は見えないから、見失うな、ではない。金を失っても、職を失っても、確かに痛い。しかし、神を失った人生は、痛いでは済まない。ここを知るべきである。

箴言3:1 わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。 3:2 そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。

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