■ 逃げないで / ローマ人への手紙8:5~17 (2007-06-24)

洋画の字幕、見ていて感じるのは、原語により近く訳すことにこだわる場面と、今風の言葉使いや、 若者たちの言葉をはさむ場面があるが、思わず「うまい!」と感じる訳がある。 「粋だなあ!」と拍手したくもなる。 つまり、原語は決して、そうは言ってないのだが、原語以上に場にあった言葉があるものだと思う。それによって、観衆はより身近に感じるのだと思う。

面白いことにこういう訳を見つけた。 ローマ人への手紙8:5節(新改訳) 「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」

内容的にいって名訳だと思った。 生まれたままの人間は努力して霊的な考えなどしない。自然の意のままにまかせれば、自ずと楽しみや快楽を求めるものだ。つまり、もっぱら(いつも)、そっちに神経が働いてしまうものだ。 しかし、キリストの御霊に従おうとする者は、己(肉的思考)を制して生きなければならない。ここには努力や決断も必要なのだ。

「もっぱら」とは、努力もせず、我のままにまかせることでもあり、「ひたすら」とは一途に考えるようにも思える。この二つの言葉は内容的には殆ど大差ない。しかし、なんとなく、ニュアンスが違うようにさえ、思えるから不思議である。

クリスチャンになって人生を送っていると、自分がどのへんに生きているのか、時々向き合うことができる。自慢でなく、自分を裁くのでもなく、素直に観察できることは素晴らしいと思う。 反省は大いに必要、だが、前向きに生きることはもっと必要である。 イエスはいつも前向きであった。彼にとって前向きとは、十字架に向かうことであったが、決して逃げなかった。だが、私は違う。どうしても、逃げてしまう。

人が教会から離れる、礼拝から離れる。クリスチャンの交わりから離れる。それは実に神から離れることであるが、大切な点を見過ごしていると思う。 こういった場合、人は既に自分から逃げている、ということだ。 自分から逃げるから、神から逃げ、礼拝から逃げられる。 そうではないか。自分から逃げたとき、人は自己中心的なものとなる。自分に向かい合う場面など、既に失っている。 振り返ってみれば、自分の思いと考えつつ、なすべきことをしないときがあった。 したくないことをしてしまう情けない自分を見た。 パウロが嘆いた自分は、そういう自分であった。 仮に罪人の自分であれ、イエスの前に留まって、赦しを乞いつつ、礼拝に、交わりに、みことばに生きたときは、決して自分から逃げていなかったのだ。

本当の勇気とは、自分から決して逃げないことだと思う。 勿論、私などもついつい逃げている者でしかないのだが。 人間はきれいな立場でいたい。誰だって、人から批判されたり、さげすまれたくはない。 しかし、そういうところだけを気にして生きていると、すべて作り事の人間になってしまう。 他人がどう見るかではなく、創造主が自分をどう見られるか、だけを思って生きたら良いと思う。

逃げることは簡単だ。しかし、逃げないことは容易くない。 特に、イエスの前においては、である。 そこでは、いつも罪人の自分に出会ってしまう。 だが、そこでこそ、十字架の贖いはこの自分のためだった、という確信がもたらされるのである。

さあ、今をどう生きようか・・・もっぱらか、それとも、ひたすらか・・・・

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