■ 正念場 / 創世記32:22~28 (2007-07-15)

「正念場」、それは今までは我慢のしどころと解釈して来た。つまり、通常生きている領域での限界であろうか。もしくは、辞典が言うように、ここぞ、と言った場面での、頑張りどころであろうか。 しかし私としては、自分の頑張りを捨て、神さまにすべてを任せることで、腹をくくる場面、状況と解釈したい。自分なりに頑張って、精一杯努力してきたが、ここからは頑張りを捨て、神の御手に自分をまかせ、如何なる結果も神の御心と甘んじて受ける覚悟をしたとき、と考えたい。

ラブソナタと言う非常にロマンチックな名前ではあるが、大きなプロジェクトが迫っている。それは日本のリバイバルを願い、韓国のキリスト者が一大旋風を巻き起こすべく、様々な計画、行動、アピールをもたらすと言うものである。受けて側の私達は、実に貧しい。 多くの日本の教会は結局、何をどうしていいのか解らない。急に言われても、戸惑ってしまう部分が少なくない。ここに、実行の韓国教会と、先ずは一年くらい掛けて計画を練って、と考える日本の教会に、大きなギャップと温度差を感じた。だが、何はともあれ、日本の教会が必要とすることは、何でもお手伝いします、と言う韓国教会の申し出を有り難く受けることにした。

それに先立って感じたこと。 それは、赦されていない我が国と教会の現実である。戦後、直ぐにでも心からの悔い改めをもって謝っておけば誠意も通じたのであろうが、余りに引き伸ばしすぎた。そして在日の人たちへの冷たい偏見と言動のことも、謝るべきであった。日本社会全体が、悔い改めていなかったのだ。事実を事実として受け入れない風潮と国民性が、わが民族であると思う。何はともあれ、満州や中国に対し、「初めに日本の罪ありき」であるからだ。

創世記、ヤコブとエサウと言う兄弟が20年ぶりに出会う場面がある。 憎悪と殺意に満ちた兄、そし父と兄を騙し、怒りを買った弟が時を経て出会う場面は、私達読者に感動を与える。二人だけの兄弟、ましてや双子である。果たして20年と言う月日は、彼らに変化をもたらしたのか・・・・ 兄に出会う前の晩、弟は様々なプランを練った。それはヤコブなりに兄の怒りを肌で感じたからだ。そこでたくさんの贈り物を兄に見せ、それによって兄の心をなだめようとした。しかし、弟はそれでも不安であった。

大きな川が目の前に流れていた。ヤコブは家畜やしもべ、褄や子供達を渡らせたが、どうしても自分は渡れなかった。彼は正念場にあった。 ヤコブは神の前に出た。聖書は、ヤコブは神の使いと取っ組み合った(レスリング)、とあるが、おそらくヤコブの我と、神の義が霊肉いり交えての激しい戦いであったのだと思う。 自分の義を立て、神の義に打ち勝とうとするヤコブは実に強かったが、所詮降参するしかなかった。しかし、負けてもただでは起きないヤコブは、神からの祝福を求めた。この場面、ヤコブは人間としての欲と誇りを神に明け渡した、と私は解釈する。冷静沈着なヤコブの一生に一度の正念場であった。

翌朝、日が頭の真上で暑く照らす頃、エサウが遠くに見えた。砂塵を巻き上げて、400名の集団がヤコブの道をふさいでいた。そして、ヤコブは兄が近づくまで、地に頭を七回伏した。兄弟は20年ぶりに出会い、抱き合って泣いた。

日本と韓国、近くて遠い国。嫌われている日本。赦されていないこの国。贈り物をもってしても赦されない。何をすべきか?そう、この国が、神の前に出ることだ。そのことを第一に考えた。

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