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■ 神の愛に理由なし / ローマ人への手紙9:1~18 (2007-08-12)

日本、そして世界に牧師は大勢いる。しかし、パウロのような熱い告白をする牧師、宣教師はそうはいない。

 

 彼はこう言っっている。
ローマ9章1~3節
 『私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。』
もし、ユダヤ人がイエスを救い主と告白し受け入れるなら、自分の身はどうなっても構わない、と言っている。同国人、同胞のためにこれほどの願いと覚悟の人間は中々いない。
 

 韓国はオンヌリ教会のハ・ヨンジョ牧師は、日本の民が救われるためなら、何でもしよう。どんなことでもしたい、たとい、この命が失われようともと覚悟した。同胞のためではない。自国民を迫害した国民のためにである。神の強い愛を思わされた。
 

 神さまはある意味、一方的である。神は絶対主である。人間が、信じる神を絶対主としているか否かで、その人の信仰がわかる。だが、それが盲目の服従であってはならない。洗脳であってはならない。自らの確信によって、神を絶対として行くのである。実際、神は絶対主であると思う。その力、知恵においてどこに他の神がいるだろうか。
 

 「わたしは憐れむ者を憐れみ、自分の慈しむ者を慈しむ」と語られた。
ここに、私が救われ、あなたが救われた。
 要するに受けて側の意向とか、都合ではない。神さまの都合によったのである。
かと言って、神はすべての人類を救いの対象にされている。十字架はそういう大きさを持っている。
 

この宇宙大の大きな神さまを、ごみ粒のような人間の更に小さな心や頭で理解しようない。頭や心を超えた霊性によってさえ、人間は計れないであろう。だが、人が自分の罪の深さを知ったときに、神の愛の大きさに驚く。人の限界を知ったからであろう。欠点を悟ったからであろう。神の愛は、自分が直接的に触れなければ、わからない。本とか人から聞いたり説明された程度では、頭の隅に残る程度である。
 自分が赦され、その有り難さに打ち砕かれ、感謝と賛美に打ち震えるとき、神はその人の絶対主となられる。
 

 私は礼拝メッセージで幾つかの質問を会衆に投げかけた。会衆は大きな声を出して、「ハイ」か「いいえ」でもって答える。皆が一緒に答えるので、誰がどう答えたかはわからない。
 質問は下記のような内容である。
あなたは罪人ですか?
あなたは隣人を自分を愛するように愛していますか?
あなたは神さまを恨んだことがありますか?
あなたを受け入れない人を愛せますか?
あなたは家族、親族のすべての一人一人を愛していますか?
あなたは愛されるに相応しい理由がありますか?
あなたは神を愛するために理由が必要ですか?
 

 会衆は全員、「ハイ」か「いいえ」で答えてくれた。
 何はともあれ、神と自分に向かい合って、それを声に出してくれた。この時間の中で、会衆が神の絶対性を考え、受けるに相応しくない自分に向かって注がれる神の愛を再考して欲しかったのである。
 

 

 

 

 

 

 

 

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