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■ 神よ私に熱く迫ってください。 / ローマ人への手紙10:11~21 (2007-09-16)

1985年当時、私が属していた教会でこういうことがあった。
 教会の執事をしていた在日米軍兵士のアメリカ人夫妻には男の子が三人いた。子供達は皆、元気で可愛い盛りであったが、両親は女の子を欲していた。そこで、彼らは日本人の女の子を養子に迎えることを選んだ。恵まれない家庭の子供を敢えて引き取り、自分たちの子供として育てることに、夫婦は祈りの過程で一致して行ったようだった。
 施設を通して、候補者の子供が二人リストアップされた。夫婦は二人の赤ちゃんと面接し、そして聖霊は彼らに語られた。
 夫婦は神の前において決断し、答を出した。どちらの子というものではなく、二人共を養子として引取った。
 夫妻は言った。「私達には、この子だけと言えない。神は私達に二人を下さったと信じます。」
 人は神の愛と導きを優先するとき、これほどの強さを持つことができる。つくづく彼らの大きな愛を感じた。果たして日本人のクリスチャンが、こういう大きな愛をもつことができるだろうか。
 

 刻々と過ぎ行く短い時間の中で、神の導きだけを信じて、長い将来が伴うことを決断し、即答して行った夫婦に対し、私は頭を垂れるしかなかった。そして、貧しい自分の愛と信仰に出会った。一人の幼児のお母さんと話しをしながら、彼女の娘の将来が本当に幸せであることを確信し語った。それしか、私には術が無かった。

 

 榎本保朗先生の本のこういう記事があった。
あるキリスト教孤児養育施設で育っている子供達の里親の問題であった。施設の関係者は嘆いた。
 「まがりなりにも、聖書を基盤として子供達を世話し育てている私達にとって、一番やりきれないことは、クリスチャンの里親が全くいないということです。折角、聖書の教えを感じながら育った子供達が貰われてゆく家庭には、キリストがおられないのです。日本のクリスチャンはこんなに貧しいのでしょうか・・」聞いた榎本先生は「肺腑をえぐられる思いだった」と言っておられる。
 

 自分の心と重ねつつ、実にそうなのだと思った。貧しい信仰なのである。礼拝を毎週几帳面に重ね、祈り会も守り、月定献金を捧げているが、自分の人生の現実面では神の声を聞いていないし、呻きもしないし、決断もしない。貧しいのではなく、無視している。
 聖書にある。「なすべき正しいことを知っていながら行わないのは、その人の罪である。」ヤコブ4章17節。
 

 神はどれほど、聖霊によって、声高く、強く、世界のクリスチャンに叫んでおられるだろう?その声はすべてに行き渡っている、とローマ書は言う。昔のイスラエルが、神の声を聞きながら、無視し、聞こえぬ振りをし、心を閉じた。
そして今、クリスチャン達がイスラエルと同じ態度をしているに違いない。神の愛の深さを、その身で知りながら・・・
 

 でも、ここに満足しているわけではない。貧しい限りの愛の無さを自覚しつつ、それでも神に祈りたい。「神さま、私に熱く迫ってください。あなたのみ声を聞く心を私に造ってください。私の心が、あなたに向かって開くように、お助けください。あなたの助けなくして、何も出来ない弱い者ですから。」
 

 

 

 

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