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■ 共存共有 / ルカの福音書15:10~24 (2007-09-30)

September 30, 2007

放蕩息子の話がある。その子には兄がいた。息子二人は性格も生き方も異なる。どちらも結局は、お父さんからかけ離れて生きていた。つまり、父と息子は人生を共有していなかった。
だが、彼らの父は神の慈愛を持っていた。息子二人はそれぞれがユダヤ人と異邦人を象徴しているのかも知れない。
 若しくは、弟息子が象徴するのは、イエスに救われる前の人間であり、兄息子はキャリア・クリスチャンであろうか。
こうして考えると、この家庭は実に淋しい家であった。このお話しは崇高な父がいて、積極的でもわがままな弟息子、一方は内向性で他を赦さない兄息子であった。イエスさまの例えは例えで終わらないから凄い!
 

 「共存共栄」ではない。「共存共有」である。
 神さまと人は一対一で向かい合い、祈りと聖書を通して語り合い、苦しみを、喜びを共有し合う。これこそが人間が造られた理由である。
 

 共有には三つの場面があると思う。
 先ず、「思いを共有する」ことである。
 自分が今考えていること、様々あろう。しかし、中には頭の痛い思いもあるし、選択に悩むこともある。さして考えずに行動したい思いもあろう。だが、これらを私達はどれだけ「神さまと共有」しているだろうか?
 私の思いは私だけのもの!とは理解できなくもないが、神と共有することは非常に大切である。先の先まで知っておられる方なのだから、どうしてその方に知っておいて貰って損となるであろうか。
 

 次に「生を共有する」である。
 生とは今日の自分の生であり、人生でもある。つまり、生きること、生きる時間、生きる場所、生きる自分を神さまに共有していただくのである。仮に、こういうことが面倒だとか、余計なお節介だなどと思うならば、そういう人は相当良心が咎めることをしているか、神さまに背を向けているかだろう。「生を共有する」ことこそ、クリスチャンへの神様からの大きな祝福である。もし、これをしていなかったら、多大な損失を受けているのだが、人間はそうは思わないから、ここが実に悲しい。
 

 三つ目は「目的を共有する」ことである。
 人は多くの目的を持つ。すべてがそのとおり実現しないが、共有できる目的を持つことは素晴らしい。この部分、人間だけに与えられた霊的意識であろうか。しかし、実際はどれほどの人が絶えず神さまにそのことを共有しているだろうか。人は明日が分からない。明日の命も分からない。増してや、数年先の命などとても分からない。分からないのに、計画を立てている。そして自分だけの・・・・
 しかし、もしそれらを永遠の主と共有できたら、なんて素晴らしいだろう。適うか適わないかでなく、神さまを共有できたら素晴らしいのである。
 

 教会でも人生でも言えることは、神さまと、何をどれだけ共有しているだろうか?ということである。多くの場合、殆どは人間の側の独り相撲であって、最後の最後に「神さま、お助けください」ではないだろうか?
 大概のことは私達でしますから(この思いの裏側は、「主よ、ちょっと引っ込んでいてください」でもあるが・・)、大事な場面ではお願いします、ではなかろうか。深く考えると、本当にすべてを神さまと共有することは、実に難しいものだ。
 

 

 

 

 

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