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■ 皇帝の下で、神のみ前で / ローマ人への手紙13:1~14 (2007-11-11)

私たちは日本国憲法の下に置かれ守られつつ、また、法律の下に置かれ罪を裁かれる。
いつの時代、どこの国であっても、人はここにおいて守られ、そして裁かれる。
 

パウロの書いた書簡、ローマ人への手紙から、ローマにいるクリスチャンたちの不安が感じられる。
この手紙は紀元57年頃に書かれたらしい。このとき、ローマの皇帝は悪名高き「ネロ」の統治が始まったのではと考えられる。
ネロが元々残虐非道な人だったのか否かは分からない。
もしかしたら、気の優しい、敏感な人だったのかも知れない。
しかし、皇帝の周囲にいる人々の権力と欲の渦に巻き込まれ、結果、自分を失ってしまい、悪行に悪行を重ねる皇帝になってしまったのかも知れない。
 

 何はともあれ、ローマに住むキリスト者の不安が漂ってくることは事実である。
パウロは彼らに向かって、上なる権力には忠実に従いなさい、と語る。
それは神に拠らない権力はなく、すべては神によって立てられたからだと語る。
つまり、すべては神の許しの中であると言う。
 

 確かにそうだと思う。
なぜ、こんな極悪非道な権力者が神さまの許可の中で立てられたのか、と思うことだってある。
 神さまのお考えや事情は分からないが、そう思う自分の感情に流されてはならないと思う。
 私という人間がなぜ罪赦されて今あるのか?分からない。
あんな奴がなぜ神さまに愛されているのかだって分からないのも事実だ。
でも、分からないことが沢山あるからこそ、この世だって面白い、とさえ考えられる。
 

 結局のところ、人間なんて何ともチッポケな生き物だ。
それに比べて、神さまはどれほど大きくて偉大なのか、とてもこの頭では計れない。
 

パウロは地上で生きる私達に向かって、権力者に従いなさいと語りつつ、私達の目腺をずっと高く上げさせ、はるか天上におられる真の王なる神に向けさせる。
 大統領、首相、皇帝、こういった権力に仕えるところにおいて、信仰者の生き様が鍛えられるのだからと言うのであろう。
 現実的には、ビルマ(ミャンマー)の軍事政権の弾圧に苦しむ人々が心に浮かぶ。
 「神さま、なぜ目をつぶっておられるのですか?」と思ってしまう。
それでも、神は見ておられるのだ。迫害されるほうも、弾圧する側のほうも、神は見て、聴いておられるのだ。
 

 出エジプト記の冒頭、圧制と労役に苦しみ叫ぶイスラエル民族の声は、神に届いた、と聖書は語る。
 「いやあ、聖書は聖書、現実は現実」ではない。
もしそうなら、いつだって現実が勝ってしまう。
 

そしてイエスさまはマタイ10章28節
 「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と私達を励ましてくださった。
 

 世の仕組みの中で生きつつ、世の流れには流されない。
 世の権力に跪きつつも、皇帝のはるか上なる神の御目をうかがう。
 私を愛し、私が愛する真の王に今日も礼拝できる幸せをつくづくと思う。
やがてこの世の終わりが来る。
まことの救いに入る日は、私が救われた30年前よりも近づいた。
だから、主イエスを身にまとう。
 

 

 

 

 

 

 

 

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