■ 希望を支えてくださる方は神 / イザヤ書9章1~6 (2007-12-09)

希望は人生に活力を与える。 実現するかどうかよりも、それを持ち続けられることは素晴らしいと思う。 必ず手に入れる人は、やはり諦めなかった人達である。どんな世界であっても諦めないで求め続けることは必要だ。但し、なぜか希望はスルリと逃げて行ってしまうことも多い。

預言者は神からの言葉を預かった。そして、相手が王であれ、皇帝であれ、語るべきは語らねばならなかったのだから、実に辛い。場合によってはと言うより、多くの預言者は迫害され、そして殺された。

預言者にとって、生きる希望は神である。神から呼ばれて、言葉を預かり、それを人々に伝えた。彼らは預言の内容が問題ではなかった。神のさばきが来るならばそれを語った。 暗黒の中に、明けの明星が昇ることを語るとき、人々が預言者を信じまいと、彼は語った。 預言者が仰ぐべきは、神だけであって、人間の顔色を伺うことは無用であった。

現代、私達は何を希望としているだろう? 命は70年から80年で終わりがくる。権力であれ、地位であれ、皆去ってゆく。どれほどの財産を蓄えても、すべてこの世に置いて行かねばならない。あまり沢山残して置くと、子孫たちが奪い合いになったり、または彼らの人生が狂うから、程々が良いのだろう。

希望は神さまからもらったほうがいい。 それは永遠の価値があるし、神さまが希望を実現してくれるからだ。 そのためには、神を信じよう。神の毛の先で、爪の先で信じるのではない。鰯の頭などもっての他の信仰だ。信じるとは、人生を神に賭けることである。場合によっては命さえも賭けなきゃならない時だってやって来るだろう。でも、そのくらい信じられれば、本物の信仰だ。

私は「神さまサイズのクリスチャン」というものを考えてみた。それは信仰が大きいだけでもはない。篤いだけでもない。敬虔だけでもない。柔軟性があり、固執すべきは固執して、いざという時は、絶対に神様に従う。 創世記に出てくる幾人かは、このへんが実に素晴らしい。彼らの信仰は輝いていた。彼らの信仰には個性があった。勿論、人間的弱さもあった。しかし、ここ!という時には、絶対的に神さまに従ったし、神を優先した。 希望がかすれようと、彼らは神の前から逃げなかった。諦めてしまいたい、ときもあったろうが、かろうじて神の前に戻って行った。

話はガラリと変る。野球の話題からだ。 星野ジャパンは、北京への切符を求めて、台湾で宿敵韓国と壮絶な戦いをした。 田淵コーチは監督に喜んでもらいたい、監督を胴上げしたいと、その思いだけで、監督をサポートしたそうだ。健康面では大変な重荷を負っていた監督だったから、コーチ陣は試合との両面を見ながら、ヒヤヒヤしていただろう。私もヒヤヒヤだった。

コーチは試合後、コメントしていた。「ついて来るな、と言われても、地獄にだってついて行くよ。男が男に惚れたっていうのは、こういう事だよ。」 私はそれを聞いてウン!と妙に納得した。これだ、これが私たち、日本のクリスチャン男性にない! イエス様に「惚れていない」のだ。確かに信じている。礼拝もする。学びもする。でも!「わたしに惚れているか!」と言われたら、惚れていなかった。(まさか、主はそうは仰らないだろうが) 「私のために黄泉にまで下られた主だから、黄泉までだって追っかけていくぞ!」位の意気込み?が欲しいなぁ、と自分に言い聞かせた。 しかし、そんな意気も本気だったらいいなぁ、とつくづく思った。そうだ、それそのものが希望なのだ!

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