■ 主はよみがえられた! / ヨハネの福音書20:1~22 (2008-03-23)
受難週からイースターまで三日しかない。 と、言うより、私にとって正味は土曜の一日だけである。 ヒジョーに真面目?な私は、受難週の金曜以降、イースターメッセージに取り掛かる。 受難週、苦難のしもべ、イエスさまを偲びつつ、一日、一日、マジメに主の過ごされた日を聖書の記事と重ねつつ過ごす。 そんな中で、喜びのイースターメッセージは書けないし、上から降っても来ない。 受難週とは、実に暗く重い週であることを実感する。別に年ごとの教会カレンダーに沿っているだけであり、主イエスが実際、同じ日に行動を取られたのではない。
しかし、主イエスと日々を共有できることは、なんと言う恵みであろうか、と思う。 このような思いは、ここ7年くらいであろうか。我が身と心で実感するからこそと、思った頃から、だったのかも知れない。
金曜の午後三時、イエスさまが命尽きた時間を過ぎると、本当にホッとする。それはイエスさまが苦しみを終わったからである。人間的ではあるが、十字架への歩み、そして十字架につけられたと思える時間、やりきれない思いをもつのは、多くのクリスチャンも同じだと思う。 そして、金曜の夕方、ここからイースターのメッセージを書き始める。 迫る日曜、過ぎて行く時間、今だ受難週の気分の中、だが、思いはイースターに向かわねば・・・あせりまくる心と先行する思い。心がバラバラの思いだ。 ああ、この週は週末まで牧師も受難週なのだ。
イースターの朝、春の朝日が輝いていた。 空は晴れ渡り、今年のイースターも主は天候を祝福してくださった。 空気は少し冷たいが、とても気持ちが良い。道端の小さな雑草も青々として、命を感じる。 「ああ、こんな朝に女性達は香油を持って、墓に向かったのだろうか」と想像する。 だが!一番初めのイースター、あの朝はとてもその様な雰囲気はなかった。
イエスの遺体が無い! 誰かが、主のご遺体を取って行ってしまったのか? 女達も弟子達も右往左往し、驚きと恐れが彼らを包んだのである。 そして御使いの声を聞いた。 「彼はここにはいない。彼はよみがえられた!」
イエスが葬られた墓のイメージを持つ場所で、クリスチャンたちはその朝を体験する。 ゴードンの丘、エルサレムに近い場所。 墓と言っても小さい洞窟のような空間に入る。 空っぽである。やはり空っぽか・・・と思い、外に出ようとして見上げると、かもいのような場所に札が掛けてあり、文字が目に飛び込んだ。 「彼はここにはいない!」と英文で書いてあった。 湧き上がる意味不明の感動、喜び、涙が流れる。喉が苦しい、でも嬉しい! そうだ、イエスさまは黄泉から帰られたのだ。新しいお体をいただいて。
いつ頃からであろうか? イースターがこれほど騒がれ始めたのは?
実に、イースターが無ければ、つまりイエスの復活が無ければ、世界は違っていたのだ。 先ず、新約聖書がない。魂の新生がない。救われる人がいない。ならば、教会がない。 神父も牧師もいない。賛美歌もない。絵画も彫刻も生まれなかった。 文学も思想家も人々の考えも違っていた。政治家も影響を受けたのであるから、歴史も変わっていた。 すべてはイースターが基点であった。 私の人生に大きな転換が起こった。それはイエスさまが黄泉から帰られたからだ。 さて、あなたはどうですか?