■ イースターから数日後・・・ / ヨハネの福音書21:1~22 (2008-03-30)

ヨハネの福音書21章のスタート、実に重苦しい。イースターは弟子達には訪れていないのだ。

日が昇る前、弟子達は漁に出た。舟を出し、網を降ろしたが魚は獲れない。 朝陽が上るころ、イエスは岸辺に立たれた。弟子達とは100m足らずの距離であったが、彼らにはイエスだと分からなかった。 イエスが舟に向かって叫ばれた。「舟の右側に網を降ろしなさい!」すると、おびただしいほどの魚が網に飛び込んできた。そして、弟子達は声の主を知った、と聖書は語る。

彼らが岸に戻ると、炭が起こされており、朝陽の中で、イエスと車座になって魚を食べた。 しかし、暗いのである。その場は困惑の空気が満ち、息が詰まるような雰囲気が聖書から漂ってくる。この空気の重さは一体何だろう?と思った。 弟子達は、イエスの復活された今を理解できていない。自分達は彼を否定し、逃げた。 僅かにヨハネだけが十字架を見上げていたらしい。 私には、この場の空気が読めた。それは私自身、幾度も経験したイエスからの逃避行があったからだ。イエスを拒み、否定した。だから、イエスがいきなり目の前に立たれたら、何を言ってよいかも分からない。押し黙ったまま顔を上げることも出来ずにいるだろう。

イエスはペテロを見つめて言われた。 ペテロは思わず、「またかよ・・」と感じたかも知れない。 そしてイエスは三度、繰り返してペテロに問われた。 「あなたは私を愛しますか?」 ペテロは三度、イエスに答えたペテロではなかった。

焚き火の灯りに照らされた自分の顔。彼を見た大祭司カヤパの女中に「あなたもイエスの仲間でしょう?」と指摘され、三度イエスを否定した自分がそのまま、今の自分でもあったからだ。 身の置き場もないとはこのことであった。穴があったら入りたかったであろう。 あるがままの自分の心を言い表すだけが精一杯だった。

しかし、イエスの視点は既にはるか未来を見ていた。 「私の子羊を飼いなさい。養いなさい。牧しなさい。」と三度、語られた。 イエスを愛するところに、神の子ども達を養う場所が置かれている。 例え、教会学校であれ、学びの小グループであれ、教会と同様である。神の子羊を養い育て、牧することがイエスの弟子達の使命である。 そして主はペテロに言われた。「わたしに従ってきなさい。」

イエスは更にペテロの死に方までにも言及された。 ペテロは傍らのヨハネが気になっていた。 ならば、ヨハネの未来はどうなのか?と感じたペテロは思わずイエスに聞いた。 「主よ、彼はどうなのですか?」 本当は何を聞きたかったのか、定かではない。ペテロはイエスの関心の矛先を変えたかったのか? イエスは答えられた。 「彼の命の問題はあなたに関わりがない。あなたは人のことは気にしないで、ただ、わたしについて来なさい。」

人は誰かを見て、イエスを理解できない。 イエスを見て、他者を見ると、何かが解決するのだ。 イエスに焦点を合わせずして、他人様など気にするな、と言うことだと思う。 「あなたは、先ず、わたしだけを見なさい。」 すべての解決はここにある。重苦しい空気の21章の冒頭は、ここにおいて光りが差した。 朝陽であっても、弟子達の心は照らせなかった。しかし、イエスのみ言葉は、私達に希望の朝陽となる。イエスを愛し、イエスに追いてゆく。これが真理であり「いのち」である。

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