■ 私は勿論、良い麦? / マタイ13章24~43 (2008-05-04)

子どもの頃、時々農作業を手伝わされた。 木枯らし吹く畑で麦を踏んだ。すると、麦は踏まれることにより、穂をつけてもしっかり立っていられるようになる。 熱い6月初め、麦刈りが待っている。チクチクする麦穂の針と、むし暑さだけが記憶に残っている。

聖書には毒麦の話しがある。テーマは神の国なのに・・・である。 当時、恨みを持った人は、ときとして麦の種を蒔いたばかりの相手の畑に、毒麦の種を蒔いたらしい。しばらくすると、良い麦と悪い麦は混ざって成長を始める。 そこで、しもべ達は困ってしまい、どうしたものかと、主人に聞いた。 すると主人はこう言った。「根が絡み合っているので、今は抜かないがよい。刈り入れの時が来るまで放っておけ。その時が来たら、毒麦を分けて、束ねて燃してしまえばよいから。」 だが、私だったら、きっと待ちきれずに抜いてしまうだろう。

なぜ、収穫まで待つのか? 一つ目は上に書いた如くである。 二つ目は、その畑は主人のものであるから、主人の判断と責任にお任せするのが良いらしい。 三つ目、もしかしたら毒麦は私かも知れない、と考えてみると、直ぐに抜かれないことは実に有難いのである。 ここにおいて、自分のことを考えてみた。 すると、「私は初めから良い麦であって、毒麦である筈がない」と錯覚していることに気がついた。

この人生、良い麦として蒔かれたが、良い麦のまま育つ筈もない、のである。 収穫される方の聖さと義を知っているクリスチャンであるなら、とくと胸に手をおいて自分に向かい会って反省してみるのも良いだろう。 すると、自分が良い麦だと思えなくなるのだ。

この唇は、誰かを非難し、そして神をたたえる。 この舌は、神を賛美し、誰かに舌打ちしている。 まさに一つの泉から、甘い水と苦い水が湧いている。そして、これが現実である。 一つの心で現実と神の国を見比べている。両天秤が得意な私が、なぜ良い麦であろうか。

舌を切ればそれで済むのか、右手を切れば罪を犯さないのか。 舌も右手も神さまが下さった祝福ではないのか。

エデンの園で蛇であるサタンは、女に語りかけたと聖書は言う。 女は蛇の言葉に答えて言った、と聖書にある。 蛇は再度、女に言った。そして遂に女は蛇の思い通りになってしまった。 すると耳が悪いのか・・・そうではあるまい。

蛇の声を聞いて、会話にし、やがて神を裏切ることとなったのは、人の心である。 舌を司る心が問題だ。右の手に罪を犯させる心が問題であり、目に罪を犯させる心が問題である。 目も舌も、手も耳も、コマンダーではない。心がコマンダーであり、コントロールタワーである。 日本社会の現状、狂いやすく、狂ってしまった心に歯止めはないのか。 普通の人が、簡単に普通の人を殺す。恨みのためではない。金のため、欲望のため。そして理由が無くても殺す。心を問題化しようにも、如何ともし難いところまで来てしまった。 治し様がない病魔に冒されてしまったのか。 今、教会がその真価を問われている。 事件は完全になくならないが、僅かでも少なくするために、何が出来るか? 日本人は暗闇の中に閉じこもってしまったのか?

だが、教会を訪問する人は増えている。確かに神はこの国をあきらめてはおられない。

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