■ 信仰と不信仰は紙一重 / マルコ9章14~29 (2008-06-15)

私は実に不信仰者である。但し、無信仰者ではない。 でも、他者から「あなたは不信仰です」と言われたら、きっと腹が立つと思う。 まあ自分が信仰に篤いとか、信仰深い、などと自答自問、自覚、自認、そして否定しているうちは、実に可愛い(幼い)者であると思う。 本当に信仰が深くなったら、浅いの深いの、言わなくなるのではないか。 そんなこと、本当は浅瀬の水遊びである。 ただ、ひたすら、主に信頼し続けること。これ以上に何が必要だろう。

30年前、クリスチャンになって暫くして、つくづく自分の不信仰を知った。 つまり、クリスチャンになる前は無信仰者であって、決して不信仰ではなかった。

不信仰と信仰の距離はどれくらいか? 計って見たら、なんと0.09ミリしかなかった。実に距離など殆んどないのだ。 まあ、物理的にであるが。 だが、霊的に想像すると、不信仰と信仰の距離は天と地ほどの差がある世界だ。

日本とアメリカは遠い。想像しても、行ってみても、遠い。 太平洋の大きさや、アラスカの空を飛ぶことで、間違いなく遠いと思う。 これは物理的なものだけで考えているからだ。 ところが、信仰は物理の世界ではなく、霊的世界である。神の世界、永遠にもつながっている世界だ。

「紙一重」と言う主題で考えていたので、思わず或る紙を計測した。 先ほどの0.09ミリは一万円札である。一円も一万もどちらもお金。だが、全く桁違いである。 逆に信仰と不信仰はドエライ違いがあるが、本当は0.09ミリの違いくらいではないかと思った次第である。

息子に悪霊(病の)がとり憑いた父親がイエスの前に出た。 マルコ9章 イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」 父親は言った。「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」

父親の言葉はイエスに迫っていない。言葉が迫らないのは感情面だけでなく、魂が渇いているからだ。 自分の人生体験、経験、あくまでいままで生きてきた経験から、息子の病を考えている。 幼い時からであるから、そんじょそこらの医者や方法など何になろう。 でも、出来るなら、願わくは・・・である。 私達も祈りの中で、こういう言葉をあたかも敬虔者の如く、使っている。 「願わくば・・・・    ・・・・    ・・・・。」 だが、神さまの耳は鋭い。言葉の意味だけでなく、語る人間の心を見ておられる。 必死であるなら、願わくは・・・は無い。「こうしていただかねば、ならないのです。」「そうなってもらわなくてはならないのです。」だから祈る。

するとイエスは言われた。 「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

父親は自分の不信仰に気付かされた。 もし・・・出来ることなら・・・これは謙遜と言わない。謙遜を装う不信仰である。 世の中の物理的、科学、医学、大変な世界である。 それは無視出来ないが、先ずはそれらさえも脇へ追いやって、神さまに向かい祈らねば、 やはり、慇懃無礼というか、謙遜もどきの言葉が、つい口から出てしまう。 「あ~、また言っちゃった・・・」この繰り返しである。だから、不信仰である。

0.09ミリは限りなく遠い。しかし、実際はつながっている。 「エッ、本当?」 そうです、十字架は両者をつなげているのです。だから、今日も恐れなく祈れるのです。

するとイエスは言われた。 「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

そう、信じる者の思いによって、奇跡が起きる、とイエスは言われた。 神に信頼する力と勇気が、奇跡を起こすと主は言われた。 主は直ぐに『わたしが癒すから』と言われず、父親の不信仰を指摘されたのだ。 クリスチャンはここをもう一度、考え直す必要がある。 『信じる者には、どんなことでもできるのです。』

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